2013年12月30日月曜日

靖国神社の問題は天皇陛下の参拝を抜きに考えることはできない

安倍総理の26日の靖国神社参拝が殊の外大きな問題になりました。

中韓の反応は予想通りだとしても、米国大使館が「失望している」(Japan is a valued ally and friend. Nevertheless, the United States is disappointed that Japan's leadership has taken an action that will exacerbate tensions with Japan's neighbors.)との声明を出したことは日本政府にとっても想定外だったようです。

私もここまで明確に米国が総理参拝を批判するとは思いませんでした。

この声明が意味することは二つあると思います。

一つは米国が現時点において、東アジア状勢、とりわけ尖閣を巡る日中関係に強い懸念を持っているということです。おそらくは、ちょっとしたきっかけによる軍事衝突の可能性も低くないと考えているのでしょう。そして、それは米国にとって非常に避けたいことなのだと思います。
だからこそ、本来なら米国にとって大した問題にならない今回の参拝についても過剰に反応したのではないでしょうか。

多くの日本人は日中戦争など起こるわけがないと考えているのかもしれませんが、領海侵犯を連日繰り返している現場の中国サイドが暴発するような事態もあるという米国の懸念は、十分に考えておくべきことです。

二つ目は、親密な同盟国に対し安倍総理がやらかした「後で」このような強い調子の声明を出すということは、「これで終わりにしとけよ。次はねぇぞ、この野郎!」というメッセージが込められているということです。

実際に、安倍総理はもう来年以降参拝はできないでしょう。
あるいは、他の人が総理になっても、石原慎太郎や橋下徹のような極端な政治家を別にすれば、もう参拝は無理じゃないかと思います。

逆に安倍総理や次期総理が来年以降も参拝するような事態になれば、周辺諸国の反応よりも日本人自身が国家の戦争準備を認識するべきかと思います。


しかしながら、国家の代表者が英霊が正式に祀られている場所に参拝ができなくなるということは、大変憂慮すべき事態であるのは言うまでもありません。

では、どうするか?

私の考えとしては、やはり天皇の靖国参拝(タイトルも「参拝」としたが正式には「親拝」が正しいらしいので、以下「親拝」とする)を正面から考えることを避けては通れないということです。

天皇の親拝については、昭和天皇が戦後数年置きに計8回行いましたが、1975年(昭和50年)11月21日以降崩御まで親拝を行わず、今上天皇も即位されてから一度も親拝をされていないわけですね。

昭和天皇が親拝を止めた理由として、三木武夫首相が終戦の日の参拝に際し言った「個人として参拝した」という余計な言い訳が、公式行事にならざるを得ない天皇の親拝をやりにくくさせたから、という意見もありますが、宮内庁長官や侍従が残したメモなどから今では、「昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたから」という説が有力であるようです。

この元宮内庁長官・富田朝彦が残した所謂「冨田メモ」には、昭和天皇の言葉として
松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない
それが私の心だ
と書いてあるようですが、私にはこの一節に今上天皇が即位以降一度も親拝されていない理由が刻まれているのではと思ってしまいます。

すなわち、親の心を知れば自分は親拝できない、という。


けれども繰り返しますが、今回のことで総理の参拝が難しくなり、陛下も引き続き親拝されない、という状況は何とかしなければなりません。

戦争犠牲者の追悼に並々ならぬ熱意をお持ちの陛下も、靖国の問題がこのままでいいとお考えではないはずです。

とはいえ、陛下に親拝を「要請」するなどということはあり得ないことです。
そのようなことは何人たりともできません。

ただ、問題がここまでこじれてしまった以上、陛下に靖国についての率直な思いを語っていただくのも日本人の真の平和への想いを諸外国に理解してもらうためには良いことではないかと思います。
そして、それにより昭和天皇の真意が明らかになれば、陛下が今後どのようなお気持ちで親拝をされるのであろうかも明確になるかと思います。

その上で、陛下が親拝される状況が整えられるのであればそうすべきです。

具体的には、分祀が不可能である以上、「総理以下、政府の要職にある者は今後靖国には参拝しない」としつつ、陛下の親拝を静かに待つ、ということです。

陛下が親拝されるには国際的にも静かな状況が必要で、今後どうせできないのであれば談話などの形で総理以下政府要人の参拝はしないと明言した方がいいでしょう。
その上で、陛下が親拝されるのが靖国神社にとって本来のあるべき姿かと思います。

もちろん、中韓などは陛下の親拝にも文句を付けるのでしょうがそこは全く相手にする必要はありません。

まともな国ならば、日本の伝統行為として受け入れるはずです。


取り戻すのが好きな安倍総理に、是非とも靖国神社本来の姿も取り戻してもらいたいと思います。

2013年11月2日土曜日

山本太郎の愚行を促したくまモンという着ぐるみ野郎や竹田恒泰という皇室芸人

山本太郎の園遊会直訴状事件が話題になっております。
園遊会と言うと、私の世代で思い出すのは4代目三遊亭小圓遊なのですが、さきほど調べてみて驚いたことに彼は43歳で亡くなっているのですね。
もうすでに私は小圓遊の死んだ歳を越えて生きているのでした。
今月誕生日を迎え45歳になり、「三島由紀夫が死んだ歳になってしまうのだな」などとちょっとした感慨を持っていたところ、すでに小圓遊越えを果たしていたというわけです。
小圓遊が死んだのは私が小学生のときで、彼のイメージからもっと歳だと思っていたのですが・・・
歳月人を待たず、と言うしかありません。

そんなことはどうでもいいのですが、園遊会で山本太郎がやった陛下への直訴状手渡しは誠に非常識かつバカげた行為であることは言うまでもありません。
まさに、愚行、ザ・愚行です。
今年は、若者が冷蔵庫に入ってみたり、洗浄機に入ってみたり、果てはクローゼットに入って元恋人を刺してみたりとちょっとした愚行ブームとでも呼びうる状況でしたが、ここにきて愚行の真打ち登場といった感があります。

かつて、北京オリンピックで金メダルを取った石井慧が入賞者を招いてのお茶会で、陛下に「天皇陛下のために戦いました」などと言って顰蹙をかいましたが、そこには「陛下の前でもふざけてみたい。でも、バカなことは言えない。そこで大袈裟なこと言ってウケを狙うのはどうだろう?」という下らない計算があったのでしょう。
いかにも、柔道バカが考えそうなことです。
しかし、この発言は戦争で命を落とした英霊をパロディ化して愚弄するニュアンスもあったために一部で強い反発を受け、この後、彼の金メダリストとしての栄誉は消滅してしまったのです。

このような、質の悪い愚行と比べれば山本太郎の今回の行為はピュアな感じはしますが、まともな人間のすることではないのは確かです。

そもそも、いくら参議院議員とはいえ、中核派革命軍のシンパが園遊会の参加を許されるということ事態が異常と言えば異常で、議員ならば自動的に順番で園遊会に参加できるという慣例に問題があるのではと思います。

ただそれはそれとして、私は最近の皇室を取り巻くムードがこのような愚行を許容してしまったのではないか、という気がしています。

一つは園遊会3日前の、くまモンとかいう着ぐるみ野郎が天皇皇后両陛下に拝謁した件です。
着ぐるみで陛下に拝謁ということ自体いかがなものかと思いますが、皇后陛下に「くまモンさんはおひとりなの?」と尋ねられた際に、着ぐるみ野郎はすっとぼけて何も答えず、知事が「くまモンはくまモンです」などと開き直ったかのような返答をしたとのことです。
その後、「くまモン体操」とかいう激しい踊りで着ぐるみからホコリを撒き散らしたというのですから全く無礼な話です。

そして、もう一つは竹田恒泰という皇室芸人の存在です。
皆さんもテレビのバラエティ番組でご覧になったことがあると思いますが、日本オリンピック委員会会長竹田恒和氏の長男で「明治天皇の女系の玄孫」という高貴な家柄の方なのです。
そういう人がテレビで芸人に皇室の伝統を解説するのはまだしも、背後関係の分からぬ恐喝的街宣団体を評価したり、清和天皇後裔を名乗り排外宣伝に熱心な女性を持ち上げてみたり、果ては件の山本太郎と親交を深めたりと、あまりにも脇の甘い行動が目に付きます。
彼は法学者でもあり在日外国人の通名問題など言っていることは正しいと思いますが、立場上相応しくない振る舞いも目立ってしまうのではないかと思います。


この二つに見られる最近の皇室を巡る「ゆるい環境」が、山本太郎に「議員の俺なら直訴もオッケー?」みたいな気持ちを抱かせてしまったとは言えないでしょうか?

私は、今回の彼の行為には参議院議員として何らかのペナルティが必要かと思いますが、議員辞職には当たらないと思います。
その一方で皇室に対する厳かな国民感情を立て直す必要はあると思っております。

2013年10月30日水曜日

池永チャールストーマスの逮捕と宮崎駿の引退で、今やアニメに全く関心をなくしてしまいました

私は、昔からオタクと呼ばれるタイプでした。
一口にオタクといってもいろいろですが、1960年代生まれをオタク第一世代と呼ぶらしく、1968年生まれの私は第一世代の最後の方になります。
中高一貫の私立に通っていたのですが、天文部に所属していまして三学年上くらいの先輩がまさしくオタク族の王道を行く男でしたね。
風貌は今や2ちゃんねるのアスキーアートでしか見られないような、ザ・オタクとしか言いようがないルックスで、『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスの全台詞を裏声で暗唱しているのを聴かされたりしました。

真のオタク体験とはこういうものであって、宮崎駿がいくら今の萌えアニメを全否定しても彼がオリジネーターであることは、我々の世代にとっては否定しがたいことなのです。

もっとも、そういう私自身もオタクでした。
『うる星やつら』のオタクです。

最初は高橋留美子のマンガの方にやられました。
東急東横店の食堂で、黄色と赤色のゼリーが混ざった奴を食べながら最初に『うる星やつら』を読んだときの衝撃は今でも覚えています。
少年漫画と少女漫画、劇画とマンガの全てを取り入れつつ、そのどれでもない全く新しい表現を確立していた高橋留美子の天才は、私の人生に強い影響を与えたと思います。

その後、当然のようにアニメにものめり込みオタクの道を深めたのですが、押井守監督の劇場版第2作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』あたりで興味を無くしました。
あの作品は、オタクの主流派からは今も高く評価されているようですが私にはダメでした。
同時上映の吉川晃司が主演した『すかんぴんウォーク』の方が面白かったくらいです。

高橋留美子もあの作品には全く否定的で、見た後で押井に「人間性の違いです」と言い放って帰ったというエピソードが有名ですが、高橋の『うる星やつら』とは方向性がまるで違うと思います。

私は高橋がマンガで描いた、あの訳の分からない連中がデタラメに動くだけの雰囲気が好きだったのですが、押井の『ビューティフル・ドリーマー』はそこに一つの明確な原理を持ち込み完結した世界を構築しようとします。
したがって、押井の方が正統的なSF作品としては優れたものであり、だからこそ本来的にSFを好むオタクの主流派にも人気があるのでしょうが、やはり高橋の世界観とは相容れないものだと思います。

こうして、アニメオタクから醒めて高校生になった私は、一方でアイドルオタクであり、シンセオタクであり、パンクロックが好きだったりしました。
ようするに、1980年代半ば特有の「何でもあり」をポストモダニズムで正当化して消費に明け暮れるような高校生だったのです。
ちなみに、ゲームについては、私は生まれてから45年、テレビゲームだろうが、カードゲームだろうが、スポーツだろうが、パズルだろうが全く興味がありません。

その後、宮崎勤の事件があったりして10年以上アニメには無関心、というか遠ざけていましたが、1998年に『REVIVAL OF EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)² / Air / まごころを、君に』を劇場で見ました。
サブカル周辺で話題になっていたので見てみたのでしょうね。
それなりに面白かったですが、特に引きずったりはしませんでした。

しかし、それから5年くらい経って(つまり今から10年前)、はてなでブログなどをやり始めたのがよくなかったです。
アニメの話題というのは、ネットでは受けるのですね。
受けるので、ついつい興味があるふりをして書いてしまうのです。
例えば、『涼宮ハルヒの憂鬱』などは小説を最初の数行読んだだけで、「下らねぇ」と思いました。
しかし、ブログに何か書くために読んでみてアニメなどを見ると、結構はまってしまうのです。
まあ、確かに『ハルヒ』や『らき☆すた』にはそれなりに面白いところもありました。
しかし、『けいおん!』になると全くだめですね。

以前、吾妻ひでおが『けいおん!』について、「ちょっとしたフェティシズムがあるだけ」と評していましたが、さすがに吾妻ひでおだと思いました。
『ハルヒ』が「観念と対立するフェティシズムを示すだけ」、『らき☆すた』が「フェティシズムについてだけ」だとすると、『けいおん!』はまさに「フェティシズムがあるだけ」なのです。
そういう意味では、この2006年から2010年にかけての京アニ三部作に萌え系アニメの全てがあるとも言えます。

「萌え」については、ずいぶんややこしい議論をしていた人もいましたが、結局は洗練されたフェティシズムに過ぎません。
ようは「粋なフェティシズム」であって、九鬼周造の『「いき」の構造』でも読めば十分でしょう。


そして、2010年以降も録画機能付きのテレビを買ってアニメを録画で見たりしていたのですが最近はすっかり飽きました。
「こりゃ、下らない」と思ったのは『輪るピングドラム』あたりからでしょうか。
ついつい最後まで見てしまったのですが結局、「思わせぶり」しかないと思いました。
『魔法少女まどか☆マギカ』なども録画したものの全く見る気が起きません。

テレビドラマも見ないのですが前回書いたように、『あまちゃん』は見ました。
やっぱり、違うのですね。
映像としてはアニメも面白いのですが、「言葉の精度」が宮藤官九郎のような人が作るドラマとテレビでやっているようなアニメではやはり違うのです。

もちろん、宮崎駿は別格です。
彼はよく「世界を変えるつもりでやらきゃダメだ」などと言いますが、それは「革命のビジョンを提示する」とかそういうことではないのですね。
そうではなくて、「世界を変える」とは「歴史を描ける」ということです。
『あまちゃん』でも歴史を描いているというのが、やはり一番凄いところなのです。

その宮崎が半藤一利と対談した『半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義』で、「一つのジャンルが盛んになって終わりを迎えるまでの時間はだいたい五十年だと言った先輩がいました」と語り、日本のアニメも五十年経ってしまったのでそろそろ終わりじゃないか、というようなことを言っていました。

実際そうなのだと思います。
宮崎本人の引退と共にアニメは終わりなのかもしれません。

一方で、この前の三鷹ストーカー殺人事件で、犯人の池永チャールストーマスが、中学時代に『ハルヒ』が好きなアニメオタクで、『ハレ晴レユカイ』か何かを踊っていた、という友人の証言がありました。

私は以前から、あの手の踊ったりする「明るいオタク」に何か不気味なものを感じていましたが、それが表出したような気がします。
この酷い事件は、宮崎駿の引退とともに私をアニメからいっそう遠ざけました。


いずれにせよ、自分の好きなものを受け狙いで曲げたりするとダメだ、というのは私にとって大きな教訓になっています。

2013年9月30日月曜日

『あまちゃん』と歌、あるいは潮騒のメモリーズは宇多田ヒカルだった

『あまちゃん』とは何だったのか?

一言で言えば、「アイドルと歌はどうあるべきか?」ということを提示したドラマということではないでしょうか。


一昨日の『中森明夫×宇野常寛 『あまちゃん』を語りつくす!』というニコニコ生放送で、中森氏が『あまちゃん』とAKBの対立関係について考える必要がある、というようなことを言っていたと思います。
私も同感です。
宇野氏は、『あまちゃん』ではAKBが実践している新しいアイドルのあり方について描けていないのでこのドラマは過去を清算する役割しかないなどと言っておりましたが、それはAKBファンが些末な差異に過剰に現代性を見ているとしか思えません。

中森氏は雑誌のインタビューを引用してクドカンのAKBに対する無関心さを挙げ、さらに踏み込んで本当は嫌いなんじゃないかということを推測していましたが、私もそう思います。
宮藤官九郎という人は1970年生まれで、中心世代より若干年下になりますがおニャン子クラブに直接影響を受けたと世代と言えるでしょう。インタビューでも『夕焼けニャンニャン』を見ていた話をよくしています。
また、2年前にやっていた『シロウト名鑑』という番組で「割れたチョコレート」という素人アイドルグループを作ったりしていましたが、あれを見ても実に夕ニャン-おニャン子世代だということがよく分かります。
と、同時にこの人はパンクロックにも強い影響を受けています。
『あまちゃん』の音楽番組でわざわざ「スターリン」(という有名な日本のパンクバンドがあるわけですが)Tシャツを着て登場するちょっと痛いパンクおじさんです。
そして、これが重要なポイントですがパンクとおニャン子は共存するのです。
私自身がそうでしたからよく分かります。
理由はおニャン子クラブこそが日本におけるパンクだったからです。
「ビートルズもTレックスもなかった日本にパンクロックなど存在するはずがない。しかし、確かにそれは存在した。全く別のものとして」というのが宮藤官九郎が監督した大傑作映画、『少年メリケンサック』の教えるところですが、それでは日本で英国におけるパンクの役割を果たしたのは何かと考えると、それはおニャン子クラブ以外にはないのです。

そんなクドカンがパンク精神の欠片もないAKBなどを、小バカにしてネタにするのは当然なのですが、中森氏はその辺りのところを敏感に感じ取ったようです。


余談になりますが、私の記憶では83~84年当時、小泉今日子、というよりKyon2を時代の象徴として祭り上げた中森氏他2名の「新人類」によるニューアカサブカル言説の輝きが、85年以降のおニャン子の登場によって急速に失われていったという印象があります。
フランス現代思想風にイメージとして語られた資本主義の速度がおニャン子によって現実化した瞬間、その価値を失ったといいますか。
そして、あの当時中森氏のような「新人類」はそのことに為す術も無く傍観していたのです。
したがって、中森氏は宇野氏のような若い連中といっしょになってAKBなどにうつつを抜かしている場合ではないのです。
今度こそ抵抗しなければならないのです。
『あまちゃん』がそのきっかけを与えたとすれば素晴らしいことです。


さらに重要なことは、「新人類」の人達が小泉今日子=Kyon2を賞賛した最大の根拠として挙げられるのが、「何も考えていないこと」=「無意識の強度」とも言うべきものだったことです。
実際に当時の小泉が本当に何も考えていなかったかは分かるはずもありませんが、「ブリッ子」などと言われた松田聖子には自分をかわいく見せようとする自意識が多分に垣間見えたのに対し、小泉にはそれが感じられなかったことは確かで、同期の他のアイドルと比べても内面を感じさせないアイドルの表層性は際立っていました。

この「無意識の強度」という問題について、『あまちゃん』で決定的に重要なシーンがあります。

小泉演じる春子が、ウニが獲れないと悩んでいるアキに対して次のようにアドバイスするのです。

「長く深く潜るために必要なものって何だと思う?」
「(人間が一番酸素を使う器官は脳だと説明して)脳みそを使えば使うほど、考えれば考えるほど酸素を必要とするんだってよ」

それに対してアキが、「脳みそを使わなければ長く潜れるってことか。だったら得意中の得意だっぺ。楽勝だべ」などと気楽に言って春子を呆れさせるのですが、このやり取りには「無意識とバカ」、つまり「人はバカにならない限り真の無意識に達することはできない」という根源的な問題が提示されています。

中森氏は、クドカンが能年がグループ魂に加入したときの名前を「空洞」にするというラジオでの話を引用し、宮藤が能年を「空っぽの存在」(「心がない」などと言っておりましたが)と見てアキというキャラクターを作ったのではないか、という指摘をしておりましたが私もそう思います。

中森氏は『午前32時の能年玲奈』などという本を出すほど能年玲奈を評価しているようでしたが、80年代の「無意識のKyon2」から「空洞の能年」に一つの可能性を見いだしているのかも知れません。


ここで本題に戻りますが、アイドルが本来あるべき姿は春子の発する言葉に込められていると思います。

「普通にやって普通に売れるもん作りなさいよ」

AKB的な仕掛けで売るようなアイドルはダメだってことです。

また、春子のこの台詞は太巻が『地元に帰ろう』のボーカルにピッチコレクトを掛け、「ロボットみたいな宇宙人みたいな声」に変更したことに怒鳴り込んで来たときのものであって、直接的にはPerfume批判であることも見逃せません(合同結婚式の余興ではPerfumeでヒビキ一郎が怪我をするという始末です)。

ようするに、仕掛けのAKBと声いじりのPerfumeという現代アイドルの二つの主要な方向性を同時に批判しているわけです。


一方で、春子と鈴鹿ひろ美の『潮騒のメモリー』を巡る関係も極めて重要な問題を孕んでいます。

おさらいしますと、鈴鹿ひろ美があまりにも音痴だったために春子が影武者として代わりにレコーディングをし、歌番組で吹き替えで歌ったのですね。
春子はそのせいでデビュー出来ず、ずっとわだかまりを持っていたのですが、『潮騒のメモリー』を歌うアキを通して鈴鹿と一応和解します。
その後、鈴鹿が復興イベントで自らの声で歌いたいと言い出して、春子が特訓するのですが、その成果がよくわからないまま本番で鈴鹿は見事な歌を聴かせるというわけです。
ところがこのときに春子が考えるのです、実はわざとだったのではないかと。
つまり、本当は上手く歌えるのに今までわざと下手に歌っていたのではないかと思うわけです。
その真相はあきらにされないまま、二人は春子の84年部屋で真の和解を遂げるのです。

この奇妙に入り組んだストーリーには歌についての真実が込められていると思います。

まず、歌は自分の声で歌わねばならない。
そして、その上手下手については実は誰にも分からないということです。
分からないからこそ面白いのであって、機械的に一つの方向に矯正されればそれはつまらないのです。

例えば、甲斐さんに「4番より春ちゃんのほうがうまいしさ」と指摘された新田恵利が下手かどうかは実は分からないのです。
本人は放送後、ブログで不満を述べていましたが、私は実は上手いと思っています。
あの音程の動きはマイ・ブラッディ・ヴァレンタインに通じるものがあります。

また、実際の小泉今日子と薬師丸ひろ子を考えても面白いですね。

二人の歌い方は対照的で小泉は話し声ベースの子供的男性的声、薬師丸はファルセットベースの大人的女性的声。
この二つの声が最後に交差し和解するというのも、歌が持つ本来的な両義性を伝えています。


ところで、最終回にはこの二人は出てきませんでした。
歌はアキとユイの潮騒のメモリーズに託されたのでしょうか?

私は上で述べたように、おニャン子世代としてのクドカンを考えていたので、当初はAKB的なものに対しておニャン子的なものを対峙する構図を考えていました。
実際に、雑多な者の寄せ集めであるGMTはおニャン子的ではあります。
その中から潮騒のメモリーズが、おニャン子クラブのコアであったうしろ指さされ組のように真のアイドルとして描かれることを想像していましたが、違いましたね。
潮騒のメモリーズはアキとユイの友情の象徴ではあるものの、歌はアイドルであるための一つの手段に過ぎないのです。
その意味では今流行っているアイドル的であると言えるでしょう。


一方で私はドラマを見ていて、能年玲奈が演じる天野アキは誰かに似ていると思っていました。
途中で気がついたのですが、それは宇多田ヒカルです。

ニューヨークに生まれ日本でブレイクした後、アメリカ進出したもののパッとせず再び日本に戻って活躍した宇多田ヒカルは、東京に生まれ北三陸でブレイクした後、東京に行きアイドルになったもののパッとせず再び北三陸に戻って活躍した天野アキと重なります。
そして、曲は売れても結局は自分の望むような歌手になれなかった藤圭子と、影武者としての自分の声がヒットしても自身としてはデビューできなかった春子。両者が同じ相手と結婚、離婚を繰り返し、娘に夢を託すところも同じです。
また、宇多田の「U3MUSIC」のように家族で立ち上げた芸能事務所の名前が「スリーJプロダクション」ということを考えても、宇多田ヒカルとアキの類似性はある程度考えられていたのかもしれません。

私は宇多田はアイドルだと思います。
いや、宇多田ヒカルこそが最後のアイドル歌手なのです。

天野アキ=宇多田ヒカル説は、『あまちゃん』におけるアイドルと歌の問題を考えるとき、一つのキーになるでしょう。

ただ、この主張には一つ問題があります。

ユイの立場がないのです。これではいくらなんでもユイが不憫です。
と思っていたところ、週刊誌に母親が亡くなってグレてしまい、ブティック今野で買ったような豹柄ドレス姿でタバコをふかす宇多田の写真が掲載されてしまいました。

ユイです。宇多田のユイ化が地球の裏側で『あまちゃん』と同時進行で進んでいたのです!

潮騒のメモリーズの本質は真のアイドルとしての宇多田ヒカルだったのです。

2013年8月1日木曜日

ジブリの新作アニメが公開される度にやる怒濤のプロモーションはあれでいいのだろうか

漫画家のとり・みき氏による宮崎駿監督作品『風立ちぬ』の批評を読んだのですが、冒頭に「本当にそうだな」と思うようなことが書いてありました。

もはや宮崎アニメと村上春樹作品は、新作がリリースされれば、人は皆なにがしかの感想なり批評なりを述べなければいけないような雰囲気になっている。誰からいわれたわけでもないのに、おのれの見解と立場を表明しなければいけないような圧力が、少なくとも私のTLには充ち満ちる。かくして多くの人は、他人の顔色をうかがいながら恐る恐るつぶやく。

求められてもいないのに。

いや、批評家や評論家の人はいいのですよ。それが仕事だから。

こう見えても私は本業でマンガ家をやっているので、他人の、とくに自分に近いジャンルの創作物の批評には慎重だ。あたりまえだ。発する言葉はすべて自分に返ってくるからだ。

そういうことに覚悟を決めて、あるいは棚によじ登って、あるいはまったく無自覚で、気軽に辛辣な感想をつぶやいている創作者もいるけれども、あいにくなのか幸いなのか、私は覚悟も棚も無自覚も持ち合わせがないので、求められていなければ、たいていの場合スルーする。

誰も彼もがブログやSNSなどで「宮崎アニメと村上春樹作品は、新作がリリースされれば」こぞって批評めいたことを書きたがるというのは、ネットを眺めていればよく分かりますね。

かくいう私も、昔はそういうことをやっていました。
たいして興味のない『崖の上のポニョ』などを見ては、人が言わないような部分をクローズアップしたり知能の足りない人が腹を立てるようなことをブログに書き一時的に話題になっては、「フッフッフ」などと一人ほくそ笑んでいたものです。

しかし、こういうことは文章を書く練習や人々の反応を知るには良い経験でしたが、それ以上のものは何もありませんでしたね。

昔は「批評なんていうのはブログに書くべきもので、わざわざ本にするべきものではない」などと考えていましたが、それは間違っていました。
批評を書くのなら本に書くべきなのです。
紙の本でなくても、有料の独立した形態ならば電子ブックでも良いのですが、いずれにせよ、批評のようなものをちょろちょろと日記気分で書くようなことは間違っていると思うようになりました。

特に、とり・みき氏が書いているように、創作をやっている人が批評を書くというのは、よほどの覚悟がない限りやるべきではないでしょう。
とり・みき氏は「あるいは棚によじ登って、あるいはまったく無自覚」とソフトに書いていますが、ようは「恥知らず」ということです。

これは「自分に近いジャンルの創作物の批評」についてですが、そういう恥知らずな人間が自分のやっていることから遠いジャンルの批評を書く場合、自分のテリトリーの知識だけで分かったような気になって、半端な技術論を振りかざす批評などを書いてしまうのです。

こういうのは批評された側からすれば、「いや、お前映画撮ったことないだろう」みたいな反応しか生まないのですね。
「誰が言ったのかはどうでもよい。意見は意見として読んで欲しい」みたいなことを言う人もいますが、これは違います。
批評というのは、「誰が言ったか」という前提からは逃れられないのです。

とにかく、この手の批評をやりたいのか創作をやりたいのか、どちらにせよ自分を偉く見せたいというタイプの人間の書くものは読んでいるこちらが恥ずかしくなってしまいます。

しかし、人は他人の恥ずかしさを求めるという困った習性があるので(私にもあります)、それなりに読まれてしまって需要と供給の悪循環に嵌まってしまうようです。
言わずもがな、私も気を付けなければいけないということです。


ところで最近、テレビで現在公開中の映画『風立ちぬ』のプロモーション番組を盛んにやっていますね。
8月26日放送のNHKドキュメンタリー『プロフェッショナル 仕事の流儀』でも、いつもの宮崎駿監督の密着取材をやるようです。

番組最多となる3度目の出演だそうで、『千と千尋の神隠し』と『崖の上のポニョ』に続いてということでしょうか。『仕事の流儀』ではないのでしょうが『もののけ姫』でも制作過程のドキュメンタリーをやっていました。
ジブリは宮崎駿監督作品以外でも近年は新作公開の度にこういう番組をやっていますね。少なくともNHKと日テレでは必ずやるのではないでしょうか。

今回のプロモーション番組も既に2つくらい見ました。
中には結構詳細に作られた数分間のダイジェストを流している番組もありましたが、さすがにあれはどうなんだと思います。
正直、見る前に「お腹いっぱいだよ」という感じになってしまいます。

ジブリのああいう体制だとある程度の興業成績を求められるのか、宣伝を大々的にやらなければならないのかもしれませんが、逆にやりすぎると飽きてきて、「今見なくてもいいか。どうせ、1年半後くらいには金曜ロードショーでやるんだし」みたいな気になってきます。

しかも困ったことに、宮崎監督、鈴木プロデューサーともキャラが立っていて、下手したら本編のアニメより制作ドキュメンタリーの方が面白かったりするから厄介です。

それでも、映画館に行って見てしまうのはブログに批評を書かないと気が済まないから、という人も多いでしょう。

こういうことも含めて、ジブリの新作アニメは現代日本の祝祭のようなものなのかもしれません。

2013年7月27日土曜日

春子は『潮騒のメモリー』をカバーできなかったが、小泉今日子のデビュー曲はカバーだった

皆さんは、NHKの連続テレビ小説『あまちゃん』をご覧になっているでしょうか。
私は見ています。
1日2回、下手したら3回くらい見ています。

このドラマは脚本が宮藤官九郎ということで始まる前から話題でしたが、現在101話を迎えて期待に違わぬ人気と評価を得ています。

私は今の日本において、宮藤官九郎という人は別格に優秀な作家だと思います。
もちろん宮藤氏は作家というよりもテレビドラマの脚本家であり、映画監督、役者、バンド活動など様々な分野で活躍していますが、脚本から繰り出される言葉の精度を思えば、まずは作家としての評価が相応しいのではと思います。

現在の日本では、先日取り上げた宮崎駿と村上春樹の両氏が国民的と形容されるようなアニメ映画監督と小説家の位置にありますが、今後はドラマの作家として宮藤氏が、純文学の作家として中原昌也氏が日本文学の最前線で作品を生み出していくのではないかと考えています。

その宮藤氏の作品であり、また、NHKはドラマ制作においては比較的自由な環境で作品を生み出していることから、『あまちゃん』は良い作品になるだろうと予測していました。
ただ、連続テレビ小説は主演女優に大きく左右されるフォーマットなので、宮藤氏の一見悪ふざけのように見えて実は難しい作品を新人に近いような女優に上手く演じられるのかという不安がありました。

しかし、能年玲奈は大当たりでしたね。

宮藤氏の作品では、キャスティングの重要性とその素晴らしさは言うまでもないでしょうが、『あまちゃん』も主演女優が成功したことで、他の「この人以外に誰がこの役をやるんだ」と言いたくなるような役者同士が、必然的に完成された一つの世界を作っているのでしょう。

その「この人以外に誰がこの役をやるんだ」の筆頭に挙げられるのが、春子役の小泉今日子だと思います。

鈴鹿ひろ美の影武者であった春子は、太巻に本当は自分が歌っていた『潮騒のメモリー』を新たにカバーとして歌わせて欲しいと訴えるのですが、鈴鹿が承諾しないことを分かっていた太巻は「君にはプライドがないのか」と言って反対します。
そして、このことで春子と太巻は決裂して、20年後にアキが太巻に冷遇される原因になっていくのですね。

ところで、小泉今日子はポスト聖子として多くのアイドルがデビューした82年組の一人ですが、彼女のデビューシングルは実はカバー曲でした。
1979年発売の森まどかが歌った『ねえ・ねえ・ねえ』のカバーなのですが、小泉のヴァージョンではキーが少し上げられ、タイトルは『私の16歳』に変えられました。
したがって、カバーと言うよりも「あまり売れなかったが良い曲の使い回し」と言った方が正確かも知れません。
今だとグラビアアイドルなどが昔の名曲をカバーすることは珍しくありませんが、当時はアイドルのデビュー曲でカバーというのは稀でした。
ですから、カバーということはほとんど表に出されず多くの人が小泉のデビューのために作られた新曲だと思っていたのです。
とはいえ、今だと逆にいいんですが、70年代のディスコ調を引き摺る曲調は当時だと何となく古い印象がありました。
ちなみに、『私の16歳』というタイトルは前年の松本伊代のデビュー曲にしてアイドル史上に輝く名曲、『センチメンタル・ジャーニー』の有名な一節、「伊代はまだ、16だから」にインスパイアされたのではないかと思います。

ようするに小泉のデビューは、使い回しの曲と新たに付けられたバッタもんくさいタイトル、そして露骨に松田聖子の二番煎じを意識したルックスと、今考えると結構手抜きっぽい感じだったのです。
これは彼女が所属するバーニングプロダクションが今よりも荒っぽい運営をしていたからかもしれませんが、デビュー当時の人気も今ひとつパッとしないものでした。
トップアイドルと呼べるようになったのは2年後の『 渚のはいから人魚』を出した辺りで、その頃はショートカットにして洗練されたイメージでしたね。
そして、その後は髪を刈り上げて「Kyon2」となり、アイドルの次のフェーズを自ら切り開いていくわけです。

それはともかく、「本当はオリジナルである自分の歌をカバーしたいと訴える春子」を演じる「かつてカバーを歌わされた若き日の小泉今日子のカバーのような有村架純」という倒錯性は、宮藤官九郎の面白さの神髄だと思います。

2013年7月26日金曜日

祖国から追放されたカーネル・サンダースとアイコンとしての宮崎駿

ネットには全く流れていないようですが、昨日の東京新聞に驚くべき情報が掲載されていました。

『カーネル 祖国追放』と題されたその記事によれば、ケンタッキー・フライド・チキンでお馴染みのカーネルおじさんことカーネル・サンダースが、なんと米KFCの新店舗から続々と追放されているというのです。

驚くべきことですね。驚いていない人は驚かないといけないということです。

カーネル・サンダースと言えばアメリカ合衆国のアイコンとも言うべき存在です。
この「暗く血まみれの大地」という名に因むケンタッキー州の名誉大佐サンダースは、ガソリンスタンド経営からフライドチキンレストランへと手を拡げるもモータリゼーションに翻弄され、65歳にして無一文になりました。
しかし、その後、南部の正装であるあの白いスーツに身を包みケンタッキーフライドチキンのフランチャイズ化に成功。
まさに、ファーストフードの象徴でありアメリカの20世紀を体現した人物といっていいでしょう。

そのサンダースが米国であたかも大佐の名誉を剥ぎ取られるかのごとく、姿を消されているというのです。
あの、道頓堀川に沈められても20年以上の時を経て浮かんできたサンダース大佐がですよ。

理由は、KFCのヘルシー指向だということです。
現在、KFCは「KFCイレブン」というヘルシー志向の店舗を展開しているようで、そのイメージに恰幅の良いカーネル・サンダースは合わないと判断され、大佐は用済みになってしまったということです。

これはアメリカ合衆国が今、重大な転換期にある一つの証左と捉えるべき事件です。

ところで現在、日本では宮崎駿監督による5年ぶりの新作、『風立ちぬ』が大変話題になっています。
宮崎監督の集大成的作品のようですが、ゼロ戦の開発者の話ということで誤解を恐れたのか、公開直前にジブリの機関誌『熱風』で安倍政権が目論む改憲の愚を訴え、賛否両論を巻き起こしました。

一方でここ最近、クールジャパンなどと称されるコンテンツ政策が持て囃されていますが、宮崎監督自身はそのような国家主導による対外文化宣伝や輸出政策に貢献する気は全くないでしょう。
しかし、日本発の世界に通用するコンテンツとしては、ジブリ、宮崎駿が筆頭に挙げられることは言うまでもありません。

そうであれば、将来宮崎監督が亡くなったとき、クールジャパンのアイコンとして監督が祭り上げられる可能性は少なくありません。
つまり、かつてのクールアメリカの象徴がカーネル・サンダースだとすれば、クールジャパンの象徴はディレクター・ハヤオなのです。

ディレクター・ハヤオの人形がジャパニメーション専門の映画館、あるいはボーカロイド専門のライブハウスに設置される日が来るのかもしれません。

それを目指してこそのクールジャパンなのです。

2013年7月23日火曜日

「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者 」に込められたメッセージ

山口県周南市の集落で5人の遺体が見つかった連続殺人放火事件の捜査は、7月23日正午現在においても、事件の重要なキーマンと思われる男の行方が分からないようで、真相は依然として闇のままです。

殺害された3人は「鈍器のようなもの」で殴られ、ほぼ即死ということですが、「鈍器のようなもの」と「バールのようなもの」との違いも気になります。
大人気の朝の連続テレビ小説『あまちゃん』でも、「バールのようなもの」といった場合、バール以外の何を指すのかといったことが議論されており、「孫の手」などが挙げられていましたが、人を一発で仕留めるには孫の手では無理だと思われます。
そもそも、バールも「鈍器のようなもの」の範疇に入ると思われますので、報道用語として「悪いことに使う殴り道具」は「鈍器のようなもの」に統一されたのかもしれません。

しかし、それ以上に気になるのが男の家の窓にこれ見よがしに貼られた俳句メッセージです。

「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」

実はこの後に、「みつを」ならぬ「かつを」という書いた人物の名前と思われる銘が入っているのですが、多くの報道ではモザイクが掛けられたり、カットされたりしています。
これは、「かつを」が男の名前だとすると、現段階でそれを公表するのが不適切だと判断されたのかもしれません。
ただ、もしそうだとすると、「付け火」したのは男である可能性が高いのですから、自らを「煙を喜ぶような田舎者」と自嘲した意味に取れてしまいます。

しかし、私にはこの俳句に今の社会全体に対する男の思いが込められているような気がしてなりません。

というのも、「つけび」とはいわゆる「炎上」を意味するのではないかと思うのです。
「炎上」とは、ロクでもないことをやらかしてブログやSNSなどでそれを自ら公表しているような人物を、匿名のネットユーザーが大騒ぎして取り上げ、その者を破滅にまで追い込む現代の「魔女狩り」あるいは「村八分」のような事態のことを指すネット用語ですが、この「炎上」を男は「つけび」と称したのではないでしょうか。

そうすると、「煙を喜ぶような田舎者」とは日本のネットに蔓延している「炎上を喜ぶネットユーザー」ということになります。

最近でも、店主の親族が勃起した状態でコンビニの冷蔵庫に入り込んで、店が契約を解除されたり、病院でバカげたクレームを付けたことをブログに書き、大炎上に晒された末自殺した岩手県議会議員などがおりました(ちなみに彼の名前は「みつお」でした)。

この県議の例では、ネットだけではなくテレビも、まさに火に油を注ぐような報道をして炎上をスペクタクルに盛り上げました。

まさに、今の日本は「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」で溢れていると言えるのではないでしょうか。

そう考えると、この事件、「平成の八つ墓村」などとも称されていますが、真夏の暑さで頭パッカーン状態になった男が日本の相も変わらぬ土着性を詩的に訴えてみた、という見方もできるでしょう。

いずれにせよ、真相の解明が待たれます。

2013年5月24日金曜日

鈴木健の『なめらかな社会とその敵』を読んで

本書、『なめらかな社会とその敵』の巻末にある初出一覧を読むと、「全体に関するもの」として2001年に出た『NAM生成』という本が挙げられています。
全体的なイメージは、2000年に書かれたこの論文でほぼ出尽くしている。本書はこの文献で展開されている内容をその後の10年間の活動によって精緻化したものである。
と書いてあるように、その本の鈴木氏の論文、『第四章 ネットコミュニティ通貨の玉手箱』が本書のプロトタイプとなっているのでしょう。
私は当時、その論文を読みましたが非常に面白いと思いました。

ちなみに、「NAMって何?」と思われる方も多いでしょう。そこは無視して下さい。そこに触れてはいけません。鈴木氏もそう思っているはずです。

それで鈴木氏のその論文なのですが、まず、マイケル・リントンという人が発案した地域通貨LETS(Local Exchange Trading System)をベースに鈴木氏が開発したネットで取引ができる地域通貨システムGETS(Global Exchange Trading System)が紹介され、複数のLETS同士を繋いだInterGETSというアイデアも述べられています。
そして次に、「すべてが投資である貨幣」として相対値貨幣というのものが披露されます。「資本主義のブレークスルーをみている」という鈴木氏のこのアイデアこそが、本書で詳しく解説されている「価値が伝播する貨幣」PICSYです。

そこで、PICSYを理解するにはLETSのことをよく分かっていなければなりません。
本書でもLETSの説明はありますが、その本質的構造は書いてありません。
では、LETSの本質的構造とは何か?
それは複式簿記なのです。
私は何度かLETSの説明を読み、そこで強調されていたゼロサム原理から複式簿記と似ているなと思い始め、実際に取引をシミュレートしてみると完全に複式簿記そのものでした。
だから、LETSのソフトなどわざわざ作らなくても複式簿記の会計ソフトを少し改造して代用することも可能であり、そこから導き出される計算結果の意味は次のようになります。

複式簿記では貸借対照表などを作るために元帳と仕訳帳から残高計算表というのを作成しますが、そこに記載されている値はその会社における任意の時点の現金や預金、借入金等です。一方で、LETSでは、元帳が全体の取引記録、仕訳帳が参加者個々人の取引記録になり、そこから導き出される残高計算表にあたるものは参加者個々人のその時点の通貨保有残高になります。このようにして、通貨保有残高が正確に算出されるので(複式簿記ですから参加者全体で残高がプラスマイナスゼロになれば-ゼロサム原理-計算としては完全に正しいのです)通貨として機能する、というわけです。

ところで、複式簿記では貸方、借方という用語を使いますね。なぜ貸借という言葉を使うのかを詳しく説明するのは難しいのですが、簡単に言えば、そこに貸借のイメージがあるからなのです。
したがって、LETSにおいて、個人の残高がマイナスならば借りている状態であり、プラスならば貸している状態であるとも考えることができます。
ただ、普通は地域通貨においては、返済義務や利子がないので融資のような貸借関係にはなりません。
それは、むしろ融資じゃなくて投資、つまり、投資している人、投資されている人という関係になります。
ですから、LETSであってもPICSYと同様、「すべてが投資である貨幣」と考えてもよいのです。

ただし、LETSには重大な問題があります。
投資している、されているという場合、誰に投資しているのでしょうか?あるいは、誰から投資されているのでしょうか?
それは、地域に対してです。地域コミュニティ全体に対する投資、被投資の額が参加者個人の通貨残高となるのです。
これは、一つの会社の会計記録である複式簿記を原理としている以上、それしか計算できないのは当然です。
もちろん、”地域”通貨なのですから、地域に投資する、されているということが正確に数値として出てくれば、地域通貨としては十分に機能します。
ただ当時、「それでは、やはりコミュニティ至上主義だよな」と思ったのも事実です。
そして、「そういうのって、閉鎖されたコミュニティならではの村社会的な問題が出てくるんじゃないかな。下手したら、独裁者が息子に世襲させるような北朝鮮的な悲惨なことになるんじゃないだろうか?それで内ゲバみたいなことが起こって山形浩生にバカにされるような結果になるんじゃないか?」などとも思いました。

そんなことを考えていたときに、鈴木氏の相対値貨幣のアイデアを読み、「こんな方法があるのか!」と非常に興奮したのを覚えています。
私は数学が得意ではないので原理を正しくは理解できなかったと思いますが、この貨幣の計算方式ならば、コミュニティ全体ではなく参加者個々人に対する投資、被投資が正確に反映される。「これは凄いな!」と思いました。


このときから10年以上を経て、本書では、PICSYの理論とその数学的解説、ソフトウェアの開発と実験や、様々な問題点に対する回答が詳しく書いてあります。
また、通貨の問題だけではなくて、PICSYと同様の発想から生まれた新しい投票システムである「分人民主主義」、そして法や軍事の問題まで、「なめらかな社会」を実現するのための様々なアイデアが繰り広げられています。


ここでちょっと、哲学的な問題を考えてみたいと思います。
「なめらかな社会」の「なめらかさ」とは何と何の間の「なめらかさ」なのでしょうか?

私の考えでは、それはカントの「純粋理性のアンチノミー」における「先天的理念の第三の自己矛盾」の正命題と反対命題を結ぶ「なめらかさ」と捉えています。
つまり、
自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。
およそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する。
との間の「なめらかさ」です。
言い換えれば、カントのアンチノミーを解消したい、といういうことなのかもしれません。
世界の複雑さを自覚して生きながら、その自覚を通して世界への働きかけをはじめることが出来れば、私たちの未来は新たなダイナミクスを獲得することだろう。
というのは、哲学的にはそういうことだと私は考えました。
しかし、そこに、一抹の不安もあります。
アンチノミーをPICSYのようなシステムによって解消することは果たして可能なのであろうか?ということです。
システムが自然法則に取って替わることで、アンチノミーの解消が反対命題のみが残ることで達成されるのではないかという懸念です。
抽象的な話のように思われるかもしれませんが、現状の市場経済というものもそういう状況ではないかと思うのです。

私はアンチノミーを理論的に解消することはできないと考えています。
アンチノミーとは、人間の「態度」でしか乗り越えられないものだと思っています。
そういう意味で、先日書いた、坂口恭平氏の『独立国家のつくりかた』で述べられている、「態度経済」という考えが重要だと改めて思いました。

「態度」こそが今の制度をPICSY的なものに変えていくのではないか?とも思うのですが、いずれにしても、変わった後の世界を具体的に提示することはとても重要です。
だからこそ、本書も多くの人に読んで欲しいのです。

2013年5月21日火曜日

坂口恭平の『独立国家のつくりかた』を読んで

現在のような混沌とした時代には、若い人が新たな価値観を創造し古い体制を打ち壊していくという動きが出てきます。
例えば、明治維新のときの坂本龍馬のような存在ですね。
しかし、「平成の龍馬」を名乗るような人は政治家などにもおりますが、既成の枠の中だけでの改革を唱えているに過ぎなかったりします。
社会を根底から変えるには、今までの常識、というか人が見て見ぬふりをしていた部分に果敢に切り込んでいくような無鉄砲な行動力が必要なのでしょうが、多くの人がついてくるためにはそれだけではダメで、借り物ではない本物の知性とそこから滲み出る態度が必要なのではと思います。

坂口恭平という人には、それがあるのではないかと『独立国家のつくりかた (講談社現代新書)』
を読んで思いました。

この本は、坂口氏が東日本大震災と福島第一原発の事故を受けて、地元の熊本に本拠地を作り「独立国家」と称し、福島から避難された方々や子供達のためのキャンプなどを企画した一連の行動を、坂口氏のこれまでの経歴とともに紹介するという内容になっています。

しかし実際に読んでみると決してそれだけではなく、本書は明確に思想書、哲学書であり、その思想、哲学が生んだ一つの形として一連の動きがあったことが分かります。
少なくとも、彼が動画で見せているようなパフォーマンスや、躁鬱病を患っている(本人は「病気」とは思っていないようだが)ことから、「独立国家」を「遊び」や「症例」などと捉えては全く事の本質を見誤ります。

思想、哲学などと言ってもカントのような哲学者の名前が少し出てくるだけで、一般の思想書とはだいぶ異なります。しかし、この人はある程度の哲学的教養を備えた上で、物事を極めて体系的に考え自分の言葉としてアウトプットしていることは明らかです。

具体的に言えば、ドゥルーズ=ガタリの思想にとても近いものを感じました。
「自分を一個の機械と考える」というような発想もあることから何らかの影響を受けているのかもしれませんが、思想や哲学を専門にやっている連中よりもよほど、ドゥルーズ=ガタリの本質に近づいているのではないかと思います。

この人の問題意識の重要な核は土地に関することですが、より本質的にはお金に関することと言っていいかもしれません。
これは今や、建築でも芸術でも文学でも哲学でも本気で向き合おうとすれば、無視できないことなのです。
まさに、それこそが現代の本質と言ってもいいかもしれません。
土地だとかお金に対し、「アーティストの私にとって、そういうのって苦手というか疎いというか・・・」みたいな態度はもう滑稽としか言いようのないものになってしまいました。そういう人を見ると、芸術家コントを見ているような気にさせられます。

もちろん、ある程度物を考えているような人はそのことに気がついているのですが、お金というものは実に難しいものです。

芸術家がお金に本質的に向き合おうとして気がついたらただの高級おもちゃ屋さんになっていたり、批評などをやっていたのがいつのまにか水商売の親父になっていたりなどという例は、お金というものの厄介さを知る上でのみ役に立つ具体例でしょう。
あるいは、堀江貴文氏のようにビジネスの土俵でお金を考えようとしても、お金の罠に嵌まってしまい国家に潰されるようなこともあるわけです。

そういった土地やお金がもたらす困難さをいかに躱して、新たな価値観を創造し、社会を変えていくか。
坂口氏は土地の問題を考えるにあたり路上生活者と接することから始めましたが、そのような実践と、本書で再三強調されているように徹底して疑問を持ち、意識を持ち、考えるということの相互運動が重要であり、この運動を人間機械論として捉えているのも面白いところです。
そしてそれが、「芸術=経済」という意識を持ち、考え、「実践すること=社会を変えること=既存の匿名化したシステムから離れ独自のレイヤーを見つけること」なのでしょう。

80年代的な無意識の擁護と相対主義に対し、徹底した意識化と断定を推し進める坂口氏の思想は、ポストモダン系の思想から出発して遅れてきた80年代おじさんみたいだった人が結局はゼロ年代的な「遊び」で終わってしまった後で、3.11以降いきなり社会に目覚めて「福島第一原発を観光地に!」とかおかしな方向にいったのとは実に対照的だなと思いましたが、ドゥルーズ=ガタリなどはそういう連中と違い断定的に実践を促すものでした。それは危険な思想ではありますが、今は明らかにそういったことが要請される時代になってしまいました。

坂口氏が行っている建築学的な調査は、赤瀬川源平らが70年代にやっていた超芸術トマソン(路上観察)に近いかもしれません(したがって、「もの派」との関連も考えられる)。
ただし、赤瀬川のトマソンは大きく誤解されているところがあると思います。
現在でも団地なんかを面白がる連中がいますが、赤瀬川のやっていたことは本質的にそれらとは異なります。
白洲正子が晩年、赤瀬川と意気投合したことに見られるように、赤瀬川のそれは実は茶道、というか千利休の茶に近いものでした。

この千利休について本書では興味深い記述があります。
鬱病状態のとき、他の鬱病患者と同じように坂口氏も何を見ても感動しない状態になるそうです。
しかしそれは、「感動しない=それぐらい高いテンションの鑑識眼状態にある」という意味で鬱病の精神状態を千利休病と称して、「おれ今、ちょっと千利休っぽくて」と言えばいい、などと書いています。
これは案外、利休について本質的な部分を突いているのではと思いました。

また一方で、路上生活者の手作りの家を賞賛することから、アーツ・アンド・クラフツとの関連も見いだせますが、これについて最近の日記で重要なことが述べられています。
別に、全てを手作り品で身の回りを埋め尽くしたいのではない。むしろ全くそんな気はない。相変わらず勘違いされることも多いのだが、手作りなんて、逆にあんまり好きじゃないくらいだ。そうではなく、ファミコンという製品を見て、それを模して、自分の手で、デジタル感を表現するのが好きなのだ。サンリオ商品の真似をして、サカリオという商品を模した商品のようなものを作るのが好きなのだ。自分の作った適当なものを透明の袋に入れるだけで商品化してしまう、その透明の袋や、額縁が好きなのだ。なぜ一枚硝子を通すだけで、写真は、作品になるのか。その膜が気になっている。0円ハウスもその精神で捉えている。僕は60年代に流行ったようなセルフビルドなんか実は全く興味がない。むしろ、自らの創造性を減退させるものなので、避けている。0円ハウスはそうではない。あれは、製品だったものが家の部材に変化している、トランスフォームしていることが興味深いのだ。その違いを言語化するのって、なかなか難しいものである。
この「違い」に、芸術と社会、経済の複雑な問題があると思いますが、それを思想として提示するのは現時点では難しいことなのでしょう。しかし、少なくとも単なる美学的な立場や、従来の社会主義的な立場だけで考えることはできないことは確かです。


今、日本はアベノミクスで浮かれて金さえ刷ればオールオッケー!みたいなムードになってきていますが、早晩この状況は崩壊するのではないかと思います。
そうなったときに、坂口氏や同年代である起業家の家入一真氏のような、お金と社会のあり方を変革する様々な試みを行っている人物が本当に必要とされる時代になるのかもしれません。

とにかく、この『独立国家のつくりかた (講談社現代新書)[Kindle版]』は、多くの人、とりわけ若い人に読んで欲しいと思います。
やりたいことは無視して、自分がやらないと誰がやる、ということをやらないといけない。
その通りじゃないですか。

2013年5月15日水曜日

Adobeソフトの自動アップデートには注意

先ほどのことですが、ネットの接続がいきなり切断されてしまいました。
稀にこのようなことはあり、今までならモデムの電源を入れ直した後でPCを再起動すれば接続できたのですが、今回は何度再起動しても接続できませんでした。
コントロールパネルを見ると、PCからモデムまでは問題なく、そこからネットに接続できないようなのですが原因がよく分かりませんでした。

しかし何度かPCをシャットダウンしていると、「更新をインストール中」というメッセージが出たので、そのまま最後までインストールさせた後に起動すると再構成され、ネットに接続できました。
その直後、Adobe AcrobatだったかAdobe Readerが更新された、というメッセージが表示されたので、「ああ、これだったか」と思いました。

今も問題なく接続されていますが、このようなことは困りますね。
もちろんWindowsが自動で更新をインストールすることは毎週のようにありますが、その前にネットに接続できなくなるようなことはありませんでした。
したがって、恐らくはAdobeの自動更新に問題があるのではないかと思います。
調べてみると、同じAdobe製品でもFlashは自動で更新しないようにしているのですが、AcrobatやReadeは自動アップデートの設定になっていたようです。

これを解除する方法は、こちらのAdobeサイトで説明されています。環境設定はPDFファイルから設定できます。

セキュリティのためにアップデートは必要なのでしょうが、Adobe製品の場合、その頻度が結構高いですね。
率直に言って、FlashにしろReaderにしろAdobeの製品というのはやむを得ずに使っているという感じなので煩わしく思います。

有料のAdobeソフトについても、私はPhotoshop Elementsをインストールしているのですが、どうにも使いにくいので、以前から使用していたPhotoImpact 7を再び使うようになりました。

Adobe製品は業界標準的な位置付けなのでしょうが、独占的な存在の弊害が出ているように思います。

2013年5月6日月曜日

Facebookのプライベート情報の公開設定は慎重に

先日、Facebookで見知らぬ若い女性からの友達申請がありました。
もちろん怪しいなと思ったのですが、その人のFacebookを見ると普通の感じだったので承認してみました。

するとすぐに、Facebookに登録していたメールアドレスに、「真行寺君枝(仮名)さんが近況にあなたをタグ付けしました。この投稿をタイムラインに掲載するかどうかを選択できます。」などというメッセージが携帯電話(docomo)のメールアドレスと共に送られて来ました。

やはりスパム業社だったのか思い、メールに添付されている「投稿を確認」ボタンを押さず承認しませんでした。

そうすると、20分おきぐらいに次々とこの女性からメールが送られて来ました。

「最初から登録した時に一緒だったみたいです♪」から始まり、「こういうのも一つの出会いなんですね!」などときて、「 承認がまだって聞いちゃったんですけど、本当ですか?」と、ちょっと焦ってみたりして、「届いてると信じています。 メッセージ機能っていうのがあるから、送ってみたんです★ 精神的にフルボッコにされたら、流す涙もなくなっちゃいます! だからだから><優しくして欲しいです♪ 理解お願いします…私はもう逃げる事なんてしません!」と、急に切迫し出したと思いきや、「少しだけ待ってみますか? 意思表示はいつでも大事だと思うんです。 人生で出会いは大切だって考えています。」と、いきなり冷静になったりしました。
この時点で友達を解除したのでこれで終わりましたが、こういうのはやはりパターンがあるようで、独特の言葉遣いからもそういう筋の人が考えている台詞だとすぐに分かります。
その後一時間ぐらいして、その人のFacebookを見てみると、すでに「このページはご利用いただけません」という状態でした。

このようなスパム業社の目的は、属性が明確な人のメールアドレスを盗み取りたいということでしょう。
私はFacebookでは本名や生年月日、経営している会社名等を明らかにしていますので、狙われたのかと思います。

ところで、私はFacebookでは基本的に知っている人しか友達承認しないので、友達になった人にはメールアドレスが公開されるように設定していました。
つまり、このスパム業社は何度もメールを出さなくても基本情報を見ればメールアドレスを盗むことは可能だったのです。
それをうっかり忘れて、怪しい人物でも友達承認してしまったのですね。
危ないところでした。

今後はこのようなことがないように、メールアドレスは友達にも公開しないように設定し直しました。
友達なら直接教えればいいわけですし、メッセージはFacebookから送れますから友達であってもプライベートのメールアドレスを公開する必要はないわけです。

Facebookも普及してからだいぶ経って、今では知らない人からの友達承認を軽々しくする人は減ったと思いますが、今回のような場合もありますので、プライベート情報の公開設定は慎重にするべきだと思いました。

2013年4月30日火曜日

終了するGoogleリーダーからの乗り換えはFeedlyがベスト

先月、RSSリーダーの「Googleリーダー」が7月でサービス終了と発表されましたが、多くの方が困惑の声を上げたのは当然のことだと思います。
RSSリーダーは情報収集ツールとしていまだに重要であり、「Googleリーダー」はシンプルで確実な動作から多くの人が使用していたからです。

最近では、SNSで情報収集をする方も増えてきていると思われますが、情報がリニアに流れるSNSよりもジャンル別に整理されて一覧できるRSSリーダーの方が、結局は早く確実に必要な情報を得やすいと思います。
つまり、RSSリーダーにおいて重要なのは、分類と視覚的な一覧性ということであり、その点で「Googleリーダー」は一番優れていたので、私もブラウザのホームページに指定して常に閲覧していました。

その「Googleリーダー」が終了するということで、最初は以前使用していた「Livedoor Reader」を試してみましたが、駄目でした。
更新が遅いということもあるのですが、何といっても致命的なのはリスト表示を開くと、「ご利用のヒント」だの「担当者のおすすめフィード」だのが最初に表示される煩わしさです。
まず最初にリストの形でフィードを確認したいのです。にもかかわらず、完全に不要なページが必ず表示されるというのは全く馬鹿げています。
タイル表示(ヘッドラインモード)の場合それはないのですが、こちらは一覧性に欠けます。

次に、「My Yahoo!」を試してみましたが全く問題外でした。
タブで分類を切り替えるしか見る方法がないというのも困りものですが、それ以前に広告がうるさくて話になりません。
Googleと比べると、Yahoo!Japanは広告の見せ方が極めて稚拙です。

そこでこれまで知らなかった「Feedly」を試してみましたが、これは良かったです。
「Feedly」がポスト「Googleリーダー」として評判が良いのは、「Googleリーダー」から複雑な移行作業をせずにフォルダもそのまま引き継ぐことができるという点にあるようですが、私の場合、登録フィードが少ないので、この点はあまり重要ではありません。

「Feedly」が優れているのは何といっても、「Googleリーダー」に良く似たシンプルな閲覧構造である、という点です。
「Googleリーダー」に似ているといっても、「左側のリストにフォルダがあり、右側のリストでフィードが表示される」というだけのことで操作性を考えれば必然的にこの構造になると思いますが、こういう「正しいシンプル」を実際に形にするは頭で考えるよりもずっと難しいことなのでしょう。

「Feedly」の方が優れている点もあります。
それは、フォルダーごとにリスト表示か大きさの違うタイル表示かを選択できるので、画像中心のフォルダの場合、いちいち表示を切り替えないで済みます。
これは「Feedly」が動的な見せ方をするサイトなので可能になっているわけですが、一方でフィードを開いても何も表示されない場合があったりと、若干不安定な動作をすることがあります。

「Googleリーダー」との違いとしては、左側のリストにはフォルダーしか置けないという点があります。
「Googleリーダー」ではフォルダーと単独のフィードを混在させることができましたが、「Feedly」では単独のフィードもフォルダーに入れないといけません。致命的な問題ではありませんが、ちょっと面倒ですね。
さらに注意しないといけないのは、フォルダーを多く作ろうとすると「Googleリーダー」とのシンクのせいか上手くできなかったりしました(現在では改善されているかもしれません)。

また、文字コードの問題としてアルファベットの全角文字が小文字になってしまうこともあります。

このようにいくつかの問題はありますが、「Googleリーダー」の代わりには十分なので現在では「Feedly」を使用しています。


それにしても、このリーダー選びの過程でつくづく思ったのは、上で述べたように「正しくシンプルにするのはとても難しい」ということです。
他の人が作ったアプリなどに対して口で批判するのは簡単なのですが、自分自身の仕事を考えてみるとバカみたいに複雑にしてしまっていることが多々あります。

「Googleリーダー」のみならずGoogleの優れた点は、「正しいシンプル」にあると思いますが、絶えず自分自身に対して「正しくシンプルであるか」と問いかける必要を感じました。

2013年4月18日木曜日

Amazonマーケットプレイスで出品者と連絡が取れないとかなり困る

私は本を買うとき、Amazonマーケットプレイスをよく利用します。
古書がネットで手軽に買えるメリットは、簡単に欲しい本が探せて新品よりも値段が安いということも当然ありますが、Amazonからの配送の場合、通常は手渡しが基本なのに対し、マーケットプレイスで出品者から送ってもらう場合、メール便などでポストに投函されることが多いというのも良い点だと思います。
手渡しの方が確実ですが、ポストに投函される場合でも特に問題になったことはなく、こちらの方が不在を気にしなくていいので私には好都合です。

もちろん、コンディションが表記よりも悪かった、配送に時間がかかったみたいなことはありますが、日本の場合、概ね良心的にやっていただける方が多いと思います。

ただ、この前、Amazonマーケットプレイスでかなり困ったことが起きました。

注文をしてから発送予定日が過ぎても商品が送られず「出荷準備中」のままで、全く連絡がないのです。
そこで、問合せのメールを出しましたが全くの無反応。その後、キャンセルの通告をしても全くの無反応でした。
キャンセルは出品者側が受け付けないと実行されないようなので、カスタマーサービスに連絡から、Amazonに問い合わせてみましたが、「現時点では、この注文の発送確認のEメールを出品者から送信いただいておりませんので、商品の配送に関する情報をお客様にお届けすることができません。なお、このご注文の代金は商品が発送されるまでお客様に請求されませんので、ご安心ください」との返答があるだけで、Amazonがキャンセルを受け付けることはないようでした。
したがって、この間、「出荷準備中」のままです。

その後、Amazonから、「2013-01-24に出品者へご注文いただきました以下のご注文は、出品者が2013-02-24までに発送確認のEメールをAmazonに対し送信しなかった場合、キャンセルとなります。(Amazon.co.jpの出品者は、注文商品を発送後、速やかに、かつ受注から最大37日以内にAmazonに対し発送確認のEメールを送信する必要があります。発送確認のEメールをAmazonに対し送信しなかった場合には、ご注文が自動キャンセルされますので、ご安心ください。)」というメールが来ました。
そして、3月5日になって「出品者が、ご注文の商品を30日以内に発送できないため、出品者の都合により、やむを得ずご注文がキャンセルされました」というメールが届き、注文はやっとキャンセルされました。

この場合困るのは、注文してから約40日の間、もしかすると商品が送られてきて代金が請求される可能性があるということです。
つまり、すぐに読みたい場合、約40日間、代わりの注文を出さずに待っていなければならないということです。
40日は長いですね。

今回の場合は推測ですが、出品者が何らかの事情でAmazonマーケットプレイスでの販売活動ができなくなったと考えられます。
これはやむを得ないことでしょう。人にはいろいろ事情がありますから。

ヤフオク!などの場合は出品が自動継続される場合でも限られていますから、今回のようなことは起こりにくいと思いますが、Amazonマーケットプレイスの場合、Amazonが定期的にチェックをするようなことは特にないようで、商品販売が不可能な状況であるにもかかわらず出品が継続されてしまいます。
今回の出品者も他の商品はいまだに出品されたままです。

もちろん評価があるので、評価にそういう事情が書いてあれば購入は控えられると思います。
しかし、今回の場合、実は新規の出品者でした。
以前、新規の出品者の方で良い対応の方がいらしたので今回も大丈夫だろうと思って注文したのですが、こういうことになったわけです。
なお、私が今回の経緯を評価に書いたので今後はこの出品者に関しては問題が起きないと思います。

ただ、新規の出品者が常にダメだということでは困りますね。Amazonマーケットプレイスが活発になるのは良いことだと思いますから。
そこで、新規の出品者の方は「詳しい出品者情報」に定期的に日付を記載するなどして、商品の発送に支障がないことをアピールするのも良いのかなと思います。

2013年4月13日土曜日

PayPalで「認証を実行する」をクリックして200円取られました

先日、PayPalが不正使用され勝手に支払いをされたという人の記事を読んだのですが、PayPalでの不正使用は時折目にすることがあり、よく意味の分からない「ポリシー変更」のお知らせメールが来ることもあったので、とりあえず自分のクレジット情報を削除しておこうと思いました。

そこで、久々にPayPalにログインして、削除を試みたのですがうまくいきません。
どうやら自分のクレジットが認証されていないようなので、よく分からないまま認証手続きをやっていたら、勝手に200円をクレジットから引き落とされてしまいました。
後で読むと小さい字で引き落としによる認証方式だと書いてあったのですが、よく確認しないまま認証のクリックを押してしまったのです。

詳しくはこちらで説明しているようですが、認証の方法としては確実だとしても、運営会社を信頼できるような方法ではないと思います。

もちろん、取られた200円は自分のアカウントに戻され買い物時に使えたり銀行口座に振込むことも出来るようですが、PayPalで買い物をする予定もないし、振込には250円かかるとかで、あきらめてアカウントを解約しました。
結局、クレジット情報の抹消方法は分からず、そのまま認証されてしまったら逆に不正利用の可能性が出てきてしまいますからね。

PayPalは海外の決済サービスとしては広く普及しているようですが、どうも信頼性に欠けるのではと思います。
私は国内の古書店でPayPalしか支払いを受けないところがあったので仕方なく登録したのですが、できれば、国内のネットショップではPayPalは使わないでほしいと思います。

楽天のようなショッピングモールに加入していないネットショップでも使えるようなネットの決済サービス、特に少額の決済サービスは今後ますます重要になってくると思いますが、なかなか信頼性のある優れたサービスは出てきませんね。

やはり、ショッピングモールが中心になって従来のクレジット会社を使うしかないのでしょうか。

2013年4月11日木曜日

実は結構難しい個人事業の青色申告決算は分かりやすい記帳から

以前にも書きましたが、個人の青色申告決算には法人よりも分かりにくいところがあります。

それは貸借対照表を見れば分かるように、「資産の部」と「負債・資本の部」がいずれも期首と期末に別れているというところでした。
この点について、以前は「会社で言えば、損益に合わせて毎年直接、減資をしたり増資をしたりするような感じです」と説明しましたが、もっと分かりやすく考えれば、年度ごとに事業をリセットをするということになるかもしれません。
「リセット」と言っても期末で全てチャラになるという意味ではもちろんなく、今年の元入金=前年の元入金+事業主借-事業主貸±損益、ということでしたが、元入金というのは株式会社における資本金に相当するものであり、事業主貸は株主が受け取る配当金に相当するものになります。

ようするに事業で儲けが出て(あるいは出なくても)、そこから家計にお金を出すような場合、事業主に(つまり自分で自分に)配当金(融資の返済と考えてもよい)に相当する事業主貸を支払い、その合計が差し引かれ残ったお金が翌年の資本金に相当する元入金として期首に計上されるというわけです。
一方で資金不足になって家計から事業へお金を出す場合、増資(融資と考えてもよい)に相当する事業主借として計上され、その合計が元入金に加えられるわけです。

以上のように考えると、一般の株式会社決算と共通するものが見えてくるのではと思います。
ちなみに、株式会社が誕生した頃も一つの事業が終了する度に株主に配当金を払って清算をしていたらしいのです。
ただし、このとき注意しなければならないのは、上記の「今年の元入金」を出す計算式を見ても分かるように「事業主貸/借」と「税金が算出される事業の損益」は別である、ということです。
この点を明確にするために事業主貸/借という考え方が導入されているのであって、これを混同して考えてしまい、事業主貸を経費として利益から差し引いてしまうと脱税になってしまいますので、この点だけは誤解なきようにして下さい。
自分の事業に対して「貸/借」という語は変だと思いますが、損益と明確に切り離して考えてもらうためにこういう用語になったのかもしれませんね。


ところで、なぜ再びこの話をするのかというと、「個人事業で、銀行口座・クレジットカードをプライベートと事業とで分ける必要はない。なぜならば、事業主借として計上すればいい」という記事を読んだからです。

これは全くその通りです。
クレジットカードは手数料無料のものが容易に作れるので、個人の買物が記載された明細と分けたいという場合は別に作ってもいいかもしれませんが、銀行口座は同じ銀行のものを二つ作る必要はないと思います。そこまでやるのなら会社を作った方がいいかもしれません。

ただ、これも以前に書きましたように年度途中の事業主借と事業主貸の記載は結構面倒なものです。
したがって、上記のような個人事業の青色申告決算の特性を考えた場合、事業主借は期首(1月1日)に、事業主貸は期末(12月31日)にまとめて計上するのが簡単なのではないかと思います。

ただし、これが可能なのは資金にある程度の余裕がある場合で、元入金としてまとまった額を入れておくことで年度途中で事業主貸/借を計上しなくて済むということです。
こうすると、仕訳帳と元帳は大変分かりやすいものになります。

なお、「資金にある程度の余裕がある場合」といっても、銀行の通帳と仕訳帳の食い違いがでないようにするためであり、現金であるならば期末にきちんと数字が合えばそれほど厳密にやる必要はないと思います。
「個人用と事業用で常に二つの財布を用意せよ」などという人もいるらしいのですが、そこまですることはないでしょう。
そもそも日々のお金の流れにおいて、家計と事業資金が混同するのを防ぐためにわざわざ複式簿記で記帳するのですから、最初から財布で分けるのは本末転倒というものです。

あくまで個人事業の記帳なのですから、事業会計として正確であるならば、家計が入り込んで分かりにくくなるよりも事業におけるお金の流れの記録としての明瞭さを優先させた方がいいのではないかと思います。

2013年4月10日水曜日

国税庁のサイトで税務申告に必要なPDFファイルが検索できない

個人に続き社長をやっている法人の確定申告も三月までに終えることができ、一息ついています。
ところで、以前にも書きましたが、損失申告用の申告書などの用紙は税務署から送られてくる用紙に含まれていない場合がありますので、ネットからPDFファイルをダウンロードしなければなりません。

ところが、これが国税庁のサイトのどこにあるのか極めて分かりにくいのです。
結局探しても分からなかったので「別表7 PDF」で検索して辿り着きましたが、検索しても出てこない書類だとお手上げです。

そこで、別表7のPDFファイルのURLを削って探してみると、ホーム>申請・届出様式にリンクされましたので、そこから、税務手続の案内に行き、「届出書・申請書等の様式」をクリックすると、やっと、国税庁様式検索が出てきます。
そこで、「名称の部分的な語句による検索」に語句を入力するか、「様式の種類等による検索」でプルダウンリストから項目を選んで検索するわけですが、ここで驚くべき事態に遭遇しました。

なんと、検索ボタンがないのです!

語句を入力した項目を選ぶと自動的に検索が開始されるのかと思いきや、一向にその気配はありません。
検索できないと、全件数4672件を少なくとも100ページにわたって一つずつ見ていかないと必要な書類が探せません。

なんというバカげたサイトか!と思いましたが、いくらなんでも検索サイトで検索できないのはおかしいと思い、ブラウザを普段使っているGoogle ChromeからIEに変えてみると、検索ボタンが右端に出てきました。

なんでこういうことになるのかと言うと、国税庁のサイトは文字が小さく見にくいのでGoogle Chromeでは125%に拡大して表示させているのですが、この状態だと検索ボタンは完全に隠れてしまうのです。
100%にしても、少し隠れた状態で位置的にも分かりにくいので見逃してしまうかもしれません。
90%に縮小すると普通に表示されますが、文字はかなり小さく見えにくくなってしまいます。

Google Chromeは世界のブラウザシェアで1位のようなので日本でも使用している方は多いはずですが、そのブラウザで国税庁の税務申告用の書類を入手するサイトがまともに表示されず必要な書類が手に入らない、というのはかなり困ったことだと思います。

国税庁は電子申告・納税システム(イータックス) を推していますが、まずはサイトを分かりやすく構築して欲しいものです。

2013年3月12日火曜日

青色申告による確定申告書の第一表と第四表の関係

先ほど、市役所に行き青色申告による確定申告をしてきました。
管轄は立川税務署なのですが、近くの市役所でも受け付けてくれるので便利です。

24年度も一昨年同様、赤字なのですが何とか今年こそは黒字にしていきたいと思っております。

ところで、青色申告においては赤字の場合、以前にも書いたように損失申告用の申告書(第四表)を書かないと、その翌年以降黒字になったときに繰り越して差し引くことができません。

そこで黒字になった場合、どのように書くのだろう思ったのですが、これが意外に分かりづらいのですね。
損失申告用の『所得税の確定申告の手引き』という小冊子にその手順が書いてあるのですが、最初は意味がよく分からなかったのです。

結論を言えば、その小冊子の手順1に書いてある「「収入金額等」ケ~サ及び「所得金額」8、9は記入しません。」という通りなのですが、これはつまり、その部分が損失申告用の申告書(第四表)に書かれるということなのですね。

ですから、申告書の書き方、読み方としては、第一表の「収入金額等」ア~ク「所得金額」の1~7まで進んだ後、第四表に飛んで「収入金額等」ケ~サ及び「所得金額」8、9に相当する部分がそこに記載され、再び第一表に戻り、「所得から差し引かれる金額」に進む、という構造になります。
つまり、第一表だけで完結する計算にはなっていないということです。

これは、今回の私のように繰り越して差し引くことがない場合でも、第四表を提出する場合は、「収入金額等」ケ~サ及び「所得金額」8、9は記入しないということで注意が必要です。

分かってしまえばそんなもんかと思うのですが、ちょっとややこしいですね。

2013年2月21日木曜日

確定申告における青色申告の注意点

確定申告の時期が近づいてきました。

私は、自分の経営している株式会社の決算から確定申告までを1人で10年以上やってきましたので、会計の基本的なことだけは分かります。
会社は現在休業中なのですが、申告はしなくてはならないので今年もやらないといけません。一方、一昨年、個人事業を開業し青色申告の申請を出したので、こちらの方も3月15日までに提出しないといけません。

個人事業の青色申告は以前、父が死んだときに受け継いでやったことがあるのですが、会社とは違う部分があるのでそのときはよく分かりませんでした。
昨年、本を買ってやってみましたが、若干妙な用語や税務署が用意した決算書のフォーマットを把握すれば、会社の決算と何ら変わりません。当然と言えば当然ですね。

若干妙な用語というのは、「事業主貸/借」や「元入金」で、「元入金」というのは、ようするに会社でいうところの資本金のことです。

一方で、「事業主貸/借」というのは、税務申告をする個人事業においては個人事業主は自分で自分に給料を払っても経費に算入できないため、年度内に事業のお金を個人に出す場合を「事業主貸」とし、逆に個人が事業にお金を出す場合を「事業主借」として、毎年の決算で
今年の元入金=前年の元入金+事業主借-事業主貸±損益、という計算をするわけです。
会社で言えば、損益に合わせて毎年直接、減資をしたり増資をしたりするような感じです。

だから、個人事業の貸借対照表は、左右の部が期首と期末に別れているのですね。

会社の決算に慣れていると戸惑ってしまいますが、分かってしまえば何てことないのです。とはいえ、あくまで会社会計の考え方をベースにしているので、会計においてどのようにして貸借対照表が作られるか、それぞれの用語が何を意味するかを理解していないと、青色申告で初めて会計に触れた方には難しいと思います。したがって、複式簿記会計の本質的な構造などはあまり考えずに参考書のやり方に沿って数字を出していくようなことでいいと思います。

ところで、私の場合は年度の途中で「事業主貸/借」を入れるのは嫌なので、最初にまとまった額の元入金を入れました。
「入れた」と言っても実際にお金を動かしたのではなく、預金の一部を事業用資金に設定しただけですね。ハードディスクのパーテーションを切るようなものです。


最近は、会社を設立するのに多額の資本金を用意する必要がなくなったために、学生のような若い人でも起業することは珍しくありません。
実際に資本がなくてもアプリ開発などでは、多くの利益を得ることも可能になってきました。
いいことだと思います。
ただ、会社というのはどのような形であれ、結構面倒なものです。また、余分にお金もかかりますので一定の儲けがなければ無駄です。
会社という形態が持つ「信用」ということもあるのでしょうが、株式会社でもこれだけ簡単に設立できるとなると、特段のメリットはないかもしれません。
したがって、あまり明確な見通しがなく事業を始めようとする人は、いきなり会社を設立するよりも、個人事業の青色申告から始めるのがいいのではないかと思います。
開業届と青色申告の申請書を管轄の税務署に提出すればいいだけですから、簡単ですね。
個人事業が上手くいき、毎月一定の給与が自分や専従者に支払えるようになれば、会社の方が有利ですから、そのときに設立してもいいのではないかと思います。
ちなみに、青色申告では準備中(開業日以前)に使った費用を「開業費」として計上できるようです。しかし、会計処理がやや面倒なこともあり、なるべく早いうちに開業届と青色申告の申請を出して、正式な個人事業主になってしまった方がいいと思います。
つまり、青色申告の個人事業主であることを起業の準備期間と考えて、経営を実践的に学んでいく、ということですね。
上で述べたように、基本的には会社の会計と変わらないのですから、その方が後々役に立つと思います。

実際、私も去年の利益は出ていません。準備期間としての開業という感じですが、経費をきちんと把握できるのでコスト感覚は身に付きます。


最後に、私が気付いた基本的な注意点を三つ挙げます。

一つは、ネット通販などでは、必ず領収書を貰うようにするということ。目立たない場所にある「領収書が必要」という項目をチェックしないと貰えない場合があるので、要注意です。

もう一つは、クレジットカードの明細を送付からネットでの確認に変えたのですが、半年分くらいしか保存していないのですね(JCBの場合)。明細書を印刷して台帳に張る必要があるのですが、8月分以前のものが入手できなかったのです。うっかりしていました。クレジットの明細書は忘れずにダウンロードしておかなければならないですね。

そして、あと一点。
上で述べた準備期間としての開業においては、事業が軌道に乗るまで利益が出ず赤字になってしまいますが、個人事業の青色申告では赤字を3年間繰越できます。これは、青色申告の重要な特典ですが、この繰越を行うには損失申告用の申告書第四表(国税庁のサイトから平成24年分以降用PDFファイルが入手できます)を合わせて提出しなければなりません。会社の別表7に相当するものですね。
これは別表7同様、税務署から毎年送られてくる申告書のセットには付いてこない場合があるので、知らないと提出を忘れてしまうでしょう。
正しい節税をするには赤字が出たら申告書第四表を必ず提出ということですね。

2013年2月20日水曜日

「Facebookの利用を再開」というメールは何なのか

Facebookから「Facebookの利用を再開」というメールがときどき来ます。

内容は「Facebookアカウントへのログインに問題が発生したというご連絡をいただいたため、このメールをお送りしています。以下よりアカウント再開を実行できます」と書いてあり、メールからログインできるようになっています。
しかし、特にログインに問題が生じたことはなかったので検索で調べてみると、個人情報などを盗む「フィッシングメール」であると言っている方が多くいました。
つまり、リンク先をクリックすると偽のFacebookに誘導され、そこでパスワードを入れると情報が盗まれて不正に侵入されてしまうということですね。
ただ私の場合だと、リンク先は本物のFacebookでメールも本物のFacebookからのようでした。
ではなぜ、こんなメールが来るのか?

Facebookがもっと活用させるために送っているのかとも考えましたが、さすがにそれはないでしょう。

よく調べてみると、認証時に携帯番号やパスワードを何回も間違って入力してログインできなかった場合に送られて来るようです。
ということは、誰かが不正に侵入しようと企んで自分のFacebookにアタックしたのだと思われます。
したがって、このようなメールが送られてきたということは侵入できなかったということですが、あまり何度も送られてくるような場合だと、それだけ多く狙われているということですからパスワードを長いものに変えた方がいいかもしれません。
また、場合によっては偽のサイトに誘導するフィッシングメールの可能性もありますから、メールのリンクはクリックしない方がいいでしょう。

いずれにせよ、誤解を受けないようにFacebookももうちょっと対策するべきだと思います。

2013年1月16日水曜日

歌会始に込められた天皇陛下の政治的メッセージ

先ほど、皇居で歌会始がしめやかに執り行われました。
やはり日本という国は、歌会始こそが新年の本格的スタートという感じですね。

しかし、この歌会始、単なる文化的行事ではありません。
普段は政治的メッセージを一切発することのない天皇皇后両陛下、そして皇室の方々が日本国に向けてその意向を高度に洗練された和歌にして表明する唯一にして最高の場なのです。
会の最中変わることのない天皇陛下の普段はお見せにならない厳しい表情がそのことを何よりも伝えています。

それでは、今年の歌会始において何が主要なメッセージだったのでしょうか?
それはやはり、安倍政権誕生で実現が難しくなった女系天皇、女性宮家創設の問題でしょう。

まずは雅子妃殿下の歌を詠んでみましょう。

十一年前
吾子の生まれたる
師走の夜
立待ち月は
あかく照りたり

女性天皇になることができなくなった愛子様が誕生された11年前をふり返り、女性皇族の行く末を案じる歌と言っていいでしょう。わざわざ11年前という半端な年月の過去を懐かしむ歌を詠むことで、雅子様の強い御意志が反映されていると考えていいのではないでしょうか。秋篠宮様の若干驚いたようなお顔が印象的でした。

そして、陛下の歌、大御歌です。

万座毛に
昔をしのび
巡り行けば
彼方恩納岳
さやに立ちたり

「万座毛」に行き彼方の「恩納岳」を眺め「さや」に立つ。
「恩納岳(オンナダケ)」=「女だけ」になってしまう皇室の彼方すなわち未来を憂う歌、と解釈していいのではないでしょうか。
「さや」とはむろん、「サーヤ」の愛称で親しまれた黒田清子様のことであり、清子様の宮家を立てたいという思いが込められているとも考えられます。
また一方で、恩納岳は18世紀琉球王朝時代に琉歌に詠まれたことでも有名な山だそうです。
やはり、陛下のもう一つのメッセージとして沖縄を孤立させてはいけない、沖縄の島々を守らなければならないという御意志が強く顕れているのではないかと考えられます。
尖閣問題や米軍基地問題などで沖縄の人々の心が日本という国から離れてしまうようなことを強く懸念された歌でもあると思われます。

こうして考えると、今年の大御歌はかなり率直に日本政府に対し大御心を表明している歌と言ってよいでしょう。もはや勅命と言ってもいいかもしれません。
出席していた赤松広隆などは終始キャバクラの女のことを考えているような呆けた顔をしていましたが、聡明な谷垣禎一法務大臣などは陛下の御意向を十分に理解してか、やや青ざめた表情をしていました。


ところで、歌会始では講師と呼ばれる人がまず全句を節をつけずに読みます。続いて発声や講頌と呼ばれる人達が節をつけて歌うのを皆で聴くわけですが、これはDJが曲をセレクトしレコードで再生して、それを聴く人達が踊るというクラブの様式を彷彿させるものです。
言わば、講師はディスクジョッキーならぬソングジョッキーと言ってもいいかもしれません。あるいはラッパーの役割を担うレゲエのDJに近い存在ですね。

歌会始において講師ことソングジョッキーは坊城俊成さんが担っています。
長髪を束ねたメガネのナイスガイです。本業は建築史家なのだそうです。
ちなみに、学生時代の坊城氏が私のいたメガネ屋でメガネを買っていただいたこともありました。


最後に私も一つ歌を詠みましょう。
今年のお題は「立」でした。

金棒を
花の頭に
打ち立てし
ひなのもすがる
関東連合

今年こそはいい歌を作っていきたいと思います。

2013年1月1日火曜日

もっとデフレを、再び円高を!そして、PSYを!

新年、あけましておめでとうございます。

昨年は年末に選挙をやりやがりまして、政権が交代しました。
自民党が政権を奪還したのは良いのですが、その経済政策は実に邪悪なものです。

原発再稼働やTPP推進の大きな問題がありますが、これらは全て今後の経済政策によって強制的に決定されてしまうものです。
そしてその政策とは、デフレ脱却を目指し円安にするという。
何という馬鹿げたことをやるのか。
円安については既に86円にまでなってしまいました。

私は断固としてデフレを支持し円高を応援したい。
しかし、日銀を脅しにかかる麻生太郎副総理兼財務・金融相(この肩書きからして事実上の最高権力者です)の元では、デフレの楽園は破壊され円安が容赦なく襲いかかるでしょう。

もはや、この国家権力の恐るべき愚行は自然災害のようなものだと考えるしかない。
この巨大津波のごとき大厄災にどのように備えていくかが今年の大きなテーマになっていくでしょう。
この事態に必死の抵抗をしておられる池田信夫先生に何とか頑張っていただきつつ、来るべき破局に備えていこうと思っております。


昨日の大晦日はNHKの紅白歌合戦を見ました。
今や、日本の歌謡曲とかJ-POPとかいうものに一切の興味をなくしてしまいましたが、一年に一度だけ状況をチェックしておこう思い、紅白歌合戦だけは意地でも全て見るようにしています。

冒頭、浜崎あゆみとか中島美嘉といったベテランの域に近づきつつある人の歌が下手になっていて驚きました。中島美嘉などは昔はもっといい歌を歌っていましたが・・・浜崎も無理して出る必要はないとしか言えないパフォーマンスです。

演歌の人達もいつもの曲を歌うだけで元気がないというか・・・石川さゆりだけは中村勘三郎への執念のようなものを感じさせ迫力がありましたが。和田アキ子のあんな歌じゃ勘三郎も成仏できないでしょうし・・・
また、矢沢永吉が元気にシャウトしていましたが、その後に歌ったサブちゃんの歌唱との間に似たようなものを見いだしてしまい、日本のロックの何たるかを思い知らされました。

美輪明宏の『ヨイトマケの唄』がネットで賞賛されていますが、何だかなという感じです。『平清盛』と似たような匂いを感じましたね。
ああいう、昔のドロっとしたノリを混ぜておけばネット世代の田舎ヤングに受けるんだろ的な。

女の集団も3組くらい出てましたが、誰が誰だか見分けがつかない状況になってきています。

良かったのは、彩香、Perfume、きゃりーぱみゅぱみゅ、なぜかエレキを弾く(ふりの)五木ひろしぐらいでしたか。
Perfumeの曲は良かったですね。やはり中田ヤスタカの時代なのでしょうか。

EXILEなどもいいんですが、別の曲を歌えばいいんじゃんないかと思います。なぜ若い人達にまで定番の曲を歌わせるのか分かりません。

あと、MISIAのセットだかロケだかよく分からない映像がある意味MISIAっぽい感じでした。あの極めてヒューマニスティックに歌っているにもかかわらず全くヒューマンを感じさせないところが、ですね。Perfumeの方が余程ヒューマニスティックだったりしますが、最近はAuto-Tune(ピッチコレクト)は控えめなようです。さすがにもう飽きましたしね、あれは。

去年は朝鮮人が3組くらい出ていましたが、今年は時勢を鑑みてか完全排除でした。
しかし、こういうときこそ出すべきじゃないでしょうか。
PSYとか出して、美輪明宏と馬ダンスを踊るべきだと思いました。


今年も頑張っていこうと思います。