2013年10月30日水曜日

池永チャールストーマスの逮捕と宮崎駿の引退で、今やアニメに全く関心をなくしてしまいました

私は、昔からオタクと呼ばれるタイプでした。
一口にオタクといってもいろいろですが、1960年代生まれをオタク第一世代と呼ぶらしく、1968年生まれの私は第一世代の最後の方になります。
中高一貫の私立に通っていたのですが、天文部に所属していまして三学年上くらいの先輩がまさしくオタク族の王道を行く男でしたね。
風貌は今や2ちゃんねるのアスキーアートでしか見られないような、ザ・オタクとしか言いようがないルックスで、『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスの全台詞を裏声で暗唱しているのを聴かされたりしました。

真のオタク体験とはこういうものであって、宮崎駿がいくら今の萌えアニメを全否定しても彼がオリジネーターであることは、我々の世代にとっては否定しがたいことなのです。

もっとも、そういう私自身もオタクでした。
『うる星やつら』のオタクです。

最初は高橋留美子のマンガの方にやられました。
東急東横店の食堂で、黄色と赤色のゼリーが混ざった奴を食べながら最初に『うる星やつら』を読んだときの衝撃は今でも覚えています。
少年漫画と少女漫画、劇画とマンガの全てを取り入れつつ、そのどれでもない全く新しい表現を確立していた高橋留美子の天才は、私の人生に強い影響を与えたと思います。

その後、当然のようにアニメにものめり込みオタクの道を深めたのですが、押井守監督の劇場版第2作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』あたりで興味を無くしました。
あの作品は、オタクの主流派からは今も高く評価されているようですが私にはダメでした。
同時上映の吉川晃司が主演した『すかんぴんウォーク』の方が面白かったくらいです。

高橋留美子もあの作品には全く否定的で、見た後で押井に「人間性の違いです」と言い放って帰ったというエピソードが有名ですが、高橋の『うる星やつら』とは方向性がまるで違うと思います。

私は高橋がマンガで描いた、あの訳の分からない連中がデタラメに動くだけの雰囲気が好きだったのですが、押井の『ビューティフル・ドリーマー』はそこに一つの明確な原理を持ち込み完結した世界を構築しようとします。
したがって、押井の方が正統的なSF作品としては優れたものであり、だからこそ本来的にSFを好むオタクの主流派にも人気があるのでしょうが、やはり高橋の世界観とは相容れないものだと思います。

こうして、アニメオタクから醒めて高校生になった私は、一方でアイドルオタクであり、シンセオタクであり、パンクロックが好きだったりしました。
ようするに、1980年代半ば特有の「何でもあり」をポストモダニズムで正当化して消費に明け暮れるような高校生だったのです。
ちなみに、ゲームについては、私は生まれてから45年、テレビゲームだろうが、カードゲームだろうが、スポーツだろうが、パズルだろうが全く興味がありません。

その後、宮崎勤の事件があったりして10年以上アニメには無関心、というか遠ざけていましたが、1998年に『REVIVAL OF EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)² / Air / まごころを、君に』を劇場で見ました。
サブカル周辺で話題になっていたので見てみたのでしょうね。
それなりに面白かったですが、特に引きずったりはしませんでした。

しかし、それから5年くらい経って(つまり今から10年前)、はてなでブログなどをやり始めたのがよくなかったです。
アニメの話題というのは、ネットでは受けるのですね。
受けるので、ついつい興味があるふりをして書いてしまうのです。
例えば、『涼宮ハルヒの憂鬱』などは小説を最初の数行読んだだけで、「下らねぇ」と思いました。
しかし、ブログに何か書くために読んでみてアニメなどを見ると、結構はまってしまうのです。
まあ、確かに『ハルヒ』や『らき☆すた』にはそれなりに面白いところもありました。
しかし、『けいおん!』になると全くだめですね。

以前、吾妻ひでおが『けいおん!』について、「ちょっとしたフェティシズムがあるだけ」と評していましたが、さすがに吾妻ひでおだと思いました。
『ハルヒ』が「観念と対立するフェティシズムを示すだけ」、『らき☆すた』が「フェティシズムについてだけ」だとすると、『けいおん!』はまさに「フェティシズムがあるだけ」なのです。
そういう意味では、この2006年から2010年にかけての京アニ三部作に萌え系アニメの全てがあるとも言えます。

「萌え」については、ずいぶんややこしい議論をしていた人もいましたが、結局は洗練されたフェティシズムに過ぎません。
ようは「粋なフェティシズム」であって、九鬼周造の『「いき」の構造』でも読めば十分でしょう。


そして、2010年以降も録画機能付きのテレビを買ってアニメを録画で見たりしていたのですが最近はすっかり飽きました。
「こりゃ、下らない」と思ったのは『輪るピングドラム』あたりからでしょうか。
ついつい最後まで見てしまったのですが結局、「思わせぶり」しかないと思いました。
『魔法少女まどか☆マギカ』なども録画したものの全く見る気が起きません。

テレビドラマも見ないのですが前回書いたように、『あまちゃん』は見ました。
やっぱり、違うのですね。
映像としてはアニメも面白いのですが、「言葉の精度」が宮藤官九郎のような人が作るドラマとテレビでやっているようなアニメではやはり違うのです。

もちろん、宮崎駿は別格です。
彼はよく「世界を変えるつもりでやらきゃダメだ」などと言いますが、それは「革命のビジョンを提示する」とかそういうことではないのですね。
そうではなくて、「世界を変える」とは「歴史を描ける」ということです。
『あまちゃん』でも歴史を描いているというのが、やはり一番凄いところなのです。

その宮崎が半藤一利と対談した『半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義』で、「一つのジャンルが盛んになって終わりを迎えるまでの時間はだいたい五十年だと言った先輩がいました」と語り、日本のアニメも五十年経ってしまったのでそろそろ終わりじゃないか、というようなことを言っていました。

実際そうなのだと思います。
宮崎本人の引退と共にアニメは終わりなのかもしれません。

一方で、この前の三鷹ストーカー殺人事件で、犯人の池永チャールストーマスが、中学時代に『ハルヒ』が好きなアニメオタクで、『ハレ晴レユカイ』か何かを踊っていた、という友人の証言がありました。

私は以前から、あの手の踊ったりする「明るいオタク」に何か不気味なものを感じていましたが、それが表出したような気がします。
この酷い事件は、宮崎駿の引退とともに私をアニメからいっそう遠ざけました。


いずれにせよ、自分の好きなものを受け狙いで曲げたりするとダメだ、というのは私にとって大きな教訓になっています。