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2017年1月2日月曜日

紅白歌合戦は真剣に見るべきもの~全出場歌手46組を採点

新年あけましておもでとうございます。

昨日の第67回紅白歌合戦はご覧になったでしょうか。
最近は紅白をバカにして見ないことをアピールしてみたり、斜に構えてツッコミを入れたりする浅薄極まりない輩が横行しておりますが、紅白は真剣に見るべきものです。

なぜならば、一年に一度四時間半だけ紅白を見ることによって、この国の大衆文化の全てが把握できるのです。

紅白さえ見れば、「握手で釣るアイドル」「喧嘩して解散する中年アイドル」「怪獣映画」「男女が入れ替わるとかの漫画映画」「コントだか何だかわからないテレビドラマ」「勘違いした外タレが喜ぶ売れない芸人の一発芸」といった、まともな大人なら興味を持たないキッズ向けコンテンツもまとめて知ることができるのだから見ないわけにはいきません。


そこで昨日の紅白ですが、私は全出場歌手46組を10点満点で採点しながら見ていましたので、まずはその結果を報告いたします。

関ジャニ∞・・・3点
嫌いなグループではないのですが、曲がつまらないですね。上滑り感満載の曲です。

PUFFY・・・6点
こちらは昔からあまり好きではありませんが、代表曲だけに曲は良く二人にもそれなりの貫禄がありました。

AAA・・・4点
結構好きなグループですが、曲は間の抜けた感じでした。オープニングのとっ散らかった場で歌っていたのも良くなかったです。

E-girls・・・6点
それなりに歌って踊って曲もまあまあ。韓国のガールズグループに比べたらどうかというのはありますが、やはりこれぐらいのレベルは見せて欲しいものです。

三山ひろし・・・4点
裕次郎のカバーとか歌って欲しいですね。

欅坂46・・・6点
オートチューンがやや露骨でしたが悪くはないです。センターはメンヘラ配信者タイプでああいうのが好きな人は多いのでしょう。軽く「ハイル」とかやっちゃうんですね。

山内惠介・・・6点
「♪夢は捨てるな、捨てるな夢は」とか、作詞者の手抜きを感じさせる歌詞は悪くないです。

miwa・・・6点
この人は売れているんでしょうか?紅白でしか名前を聞きません。曲は特にどうということもないのですが、一緒に歌った中学生が合唱部特有の「生きてます!」って感じの大作りな歌唱スタイルでmiwaを取り囲んでいたのが、先ほどの欅坂46のメンヘラセンターと対極にあって面白かったのでこの評価です。

Sexy Zone・・・2点
安易なグループ名同様につまらない歌でした。ジャニーズの思い上がりを感じさせますね。

天童よしみ・・・3点
つまらない歌と演出でした。和田アキ子がパージされて立場が悪くなったのでしょうか?

SEKAI NO OWARI・・・6点
このグループが人気があるのは分かりますが、何となく近づきたくない感が拭えません。したがってよく知らないのですが、「あんのかい?」に東京を感じさせました。あと、Fukaseは星野源と同じ匂いがしますね。

市川由紀乃・・・3点
苦労人だそうです。

三代目J Soul Brothers・・・3点
このときだけ蕎麦を茹でていてあまり見ていませんでした。

香西かおり・・・3点
真田丸のメインテーマは好きです。あさイチで三浦文彰と辻井伸行の二人がやったのは良かったですね。若者らしくリズムが躍動的でした。香西かおりは特に何もないです。

福田こうへい・・・3点
三波春夫のような人がいなくなった後で紅白歌合戦とかオリンピックとか本当は無理があるのかもしれません。

椎名林檎・・・2点
別に御用シンガーでもいいのですが、この人は昔からつまらなかったです。矢井田瞳の方が遙かに才能があります。先日もNHKの大阪特集の歌謡ショーでテレキャスとブルデラで歌っていましたが、矢井田を紅白に呼んで欲しいですね。

郷ひろみ・・・3点
なんとかという女優のダンスが見せ場だったようです。

綾香・・・7点
やはり上手いです。水嶋ヒロと離婚したときにまた一皮剥けそうです。

V6・・・5点
誰かが結婚したらしいですね。曲はいつものメドレー。あえてSMAPのカバーとかは無理なんでしょうか。

水森かおり・・・5点
巨大衣装が富士山なのが分かりやすくて良かったです。

いきものがかり・・・6点
私が昔からこのグループに思うことは、「ヒューマンリーグのネーミングをディスった村上春樹ならば、『いきものがかり』について何というか」だけなのですが、今回は昔の曲らしいですね。まだ若いのだから新曲をやらせればいいじゃないかと思うのですが。

ゆず・・・6点
永六輔の歌詞を改変というか勝手に付け加えたそうです。これが川内康範ならば化けて出てくる話です。

乃木坂46・・・4点
わりと綺麗どころを揃えましたね。昨今のAV女優を凌ぐレベルです。しかし、あべみかこや向井藍のようなAV女優の方が面白さがありますね。

RADWIMPS・・・5点
アニオタ受けと一般受けを上手く調和させた、なかなかよく考えられたバンドと曲です。

島津亜矢・・・7点
『川の流れのように』は天童よしみも歌っていましたが、こちらの方が全然上。どうでもいいのですが、秋元康の思い上がりはこの曲を作詞したときから始まったような気がします。

福山雅治・・・3点
つまらん、お前の歌はつまらん。

西野カナ・・・4点
ウエディングソングということですが、『Can You Celebrate』っていい曲だったなと思い出しました。

RADIO FISH・・・7点
これは企画物なんでしょうか?よく知らないのですが、曲も演出も悪くないですね。本来ならジャニーズがこのレベルの曲を提供すべきだと思うのですが何をやっているんでしょうかね?

AI・・・6点
「みんなのうた」か何かの企画でしょうか?悪くはないです。

桐谷健太・・・2点
この人もどういう経緯で歌を歌っているのか分からなかったので調べてみるとただのCMソングでした。だとすると、震災に絡めるのもどうかと思いまます。下手でも熱唱すれば感動という安易さは勘弁して欲しいです。

AKB48・・・1点
乃木坂よりも数段ルックスが落ちるのはいいとしても、「総選挙」とかいうのが話題にならなくなってきたので紅白に企画を持ち込むというのは許しちゃいけないでしょう。

五木ひろし・・・3点
この人は「小物感」で生き残っている。

Perfume・・・5点
曲がつまらない、というか変な逃げに入っている感があります。いっそのこと小室哲哉に作曲させるとかは無理なんでしょうか?

Kinki Kids・・・5点
そうか、初出場か、という以外に何もなし。

大竹しのぶ・・・8点
美輪明宏よりは全然いいですね。何と言ってもこれは女優が歌う必然性がある。

星野源・・・7点
恋ダンスが何なのか分かりましたが、なぜこれが流行ったのかが分からない。ドラマの影響なのでしょうか?

坂本冬美・・・9点
以前のしゃくれた歌い方が改善されてとても良くなりました。演出も良かったです。

TOKIO・・・2点
ただのオヤジバンドでしょう。

松田聖子・・・9点
誰もが知っている大ヒット曲を一番抱えたベテラン歌手が新曲を歌う。ただそれだけで凄い偉業を成し遂げた感があるのが昨今の紅白、日本の音楽界ではありますが、この人はもっと大事にされないといけませんね。

X JAPAN・・・5点
「ファイブス・アクリルドラムセットの耐えられない音の軽さ」というのがあるのですが、YOSHIKIのドラムはFibesではなくて特注らしいですね。しかし、やっぱり軽い音です。それはともかく、「原発事故をモチーフにした怪獣」VS「絶叫する元カルト信者」、というよく考えるとヤバい構図でしたね。

高橋真梨子・・・6点
病気説も出ていますが大丈夫なのでしょうか?

THE YELLOW MONKEY・・・3点
さきほどツイッターの検索で調べてみたのですが、このバンドを叩くネトウヨというのはほとんどいないのですね。
なんてったって、イエローモンキーですよ。
黒人がザ・ニガー、韓国人がザ・チョン、沖縄のローカルバンドがザ・ドジンとか名乗ったら問題になるでしょう。
歌だって「乗客に日本人はいませんでした」が悪かったような印象を与えるものです。
それでもネトウヨのバカどもが騒がないというのは、自虐(イエローモンキーと自称する)と非被害者意識に対する批判(加害者に対する批判ではない)ならばOKということでしょうか?
このあたりにネトウヨの、というより日本人の屈折した自意識が垣間見えて、それこそがこのバンドの面白さ、ということなのでしょうが、あんまり好きではないですね。

宇多田ヒカル・・・7点
数年前の中森明菜と同じような腫れ物感を醸し出していましたが、本当はNHKホールに来て欲しかったですね。
ロンドンということで、これより前に唐突に登場したポール・マッカートニー(結局、ただの来日のプロモだったようだ)が再び現れるのかと思いきやそういうこともなく、間の抜けた女優との会話で終了。
倉木麻衣やMISIAと同じような扱いで、そこは格の違い(実際に違います)を見せて欲しかったのですが、声に力がなく仕方ない部分もあるのでしょう。
しかし、曲だけを見れば「今の曲」として間違いなく最上位に位置するものです。

氷川きよし・・・5点
この人も新曲を歌わせてやればいいと思います。

石川さゆり・・・5点
熊本出身なのですね。世界は三年に一回くらい、この人にトリを取らせる大義名分を用意してくれてるような気がします。

嵐・・・3点
デビュー曲は名曲です。しかし、V6でも言いましたがSMAPのカバーを歌って先輩の長年の功績を称えるくらいやればいいと思います。誰も損はしないわけでしょう。結局、ジャニーズの思い上がりなんですよ。


以上、全46組の採点で結果は紅組124点、白組95点で紅組の勝利です。
公式の結果も紅組の勝利で、視聴者、会場、審査員との採点の配分で疑問の声が上がっていますが、審査員は概ね適正な判断をしたということでしょう。

白組については、ジャニーズが日本の芸能をダメにしているということです。
SMAPについても特に思い入れはないのですが、ああいう終わらせ方をさせる芸能事務所はやはりダメなのです。
紅組についてはAKB関係をもっと抑制させるべきです。
テレビという決まった枠の中であの人数の多さは間違っています。
いずれも、ジャニーズ、AKBの売れてるからいいだろうという思い上がりが飽和状態にまで達しているのが現状でしょう。


次に、今回の紅白の全体的印象を述べます。

1、和田アキ子のいない爽快感は事前の予想を上回るものだった
彼女一人いないだけで風通しが良くなり楽しさアップでしたね。
宇多田を出場させるために、確執(というより前川清との男女関係で藤圭子を嫌っていた和田の一方的なディス)のあった和田を排除したという説もありますが、そうだとすれば宇多田はいい仕事をしました。


2、大御所や「飼い慣らされない男達」が出なかった
和田もそうですが細川たかしや森進一も出なくなり、一挙に大御所がいなくなりましたね。五木ひろしにはどこか小物感が漂い、石川さゆりは今や津軽の雪や天城峠の風のごとき「自然現象」のような感じがします。
また、長渕剛だとか美輪明宏、泉谷しげる、サザンオールスターズといった「飼い慣らされない男達」も出なくなりました。
一昨年の桑田の勲章事件で去勢されてしまったのでしょうか?
この結果、全体に小市民的な穏やかさが溢れかえりましたがそれは悪くなかったと思います。


3、ドメスティックムードの強化
数年前までは韓国のアーティストなどが出ていましたが、震災と安倍政権で外国人は排除されていきました。さらには沖縄系の人もいなくなりましたね。その結果、目に見えて閉塞感が高まったような気がします。
海的なものが浦島太郎(桐谷健太)の歌だけというのは実に象徴的です。
タモリとマツコ・デラックスの会場に入れないという演出について、どちらかというと評判が悪いようですが、今の紅白の閉鎖性、密室感を強調していて面白かったですね。


4、サブカルとしてのアニメの排除
『君の名は。』がありますが、あれはもうサブカルではないですね。普通の大ヒット映画の主題歌としての出場でした。
ゴジラは言わずもがな実写です。
前年は企画コーナーでアニメ紅白をやり、小林幸子がボカロ曲の『千本桜』を歌ったりしましたが、あれがサブカルとしてのアニメの終わりだったのでしょう。
アニオタというのは2016年でサブカル的存在価値が消滅したと思います。ただの趣味の人になりました。


5、しょうもない企画コーナーがなくなった
これはいいことですね。あれは毎年目を覆いたくなるような悲惨なものばかりでした。
今年もピコ太郎コーナーはありましたが、2016年、「世界で最も売れた日本の歌手」による歌なのですから誰も文句は言えないでしょう。
企画コーナーの代わりに、ゴジラの寸劇とタモリ&マツコのコントが唐突に挟み込まれるという演出だったわけですが、これは賛否両論というより否定的意見の方が多いようです。
ゴジラについては冷静な有村架純という設定が面白く、しかもそれが最後の集計で予想に反して紅組が勝ってしまい素で驚く彼女の前フリになったというところが生放送ならではです。
もっとも司会の相葉については、やりにくそうで気の毒でした。

タモリ&マツコについては、あのパイプオルガンが見られたのが良かったです。
30年以上前にNenaのNHKホールでのコンサートを見に行って以来、あのオルガンがネーナの脇毛よりも気になっていたのですが、音まで出してくれて最高でした。

しかし、それ以上にあの二人が結局最後まで紅白を見られなくて、にもかかわらず満足して帰って行くというオチが素晴らしいと思いましたね。
「こんな番組、本当はもう見る必要ないだろう」というメッセージは完全に正しいものです。

この手の演出、ノリは三年前の『あまちゃん』を引き摺ったものだと思いますが、それを上手く昇華させたと思います。


したがって、今回の紅白は全体として満足のいく良い歌番組でした。

2015年1月1日木曜日

紅白をやりたいのなら普通の歌番組に戻すべき

新年、明けましておめでとうございます。

年賀状に換えまして、こちらでご挨拶させていただきます。
本年もよろしくお願いします。


昨年は、ある意味、最終回にすべき紅白歌合戦などということを書いたのですが、昨日の紅白を見てみたら、やはり止めといた方が良かったんじゃないかと思いました。

若い人というか新曲を歌うような人達が全くダメでしたね。

本当にいいところが皆無でした。
嫌いとかじゃなくて印象に残るものが何もない、という感じです。

強いて言えば、SEKAI NO OWARIというグループの曲で、以前見たときはオートチューンを使っていたのが今回は素歌だったということでしょうか。
素歌の方が演劇的な雰囲気に合っていて全然いいと思いました。


良かったのは、天童よしみ、五木ひろし、中島みゆき、といったところでしょうか。
三人とも、あまり好きな歌手ではないのですが、それぞれ素晴らしい歌でした。

ただ、恩人が死んだりしないと普通に落ち着いて歌わせてもらえないような今の紅白のムードはどうなのかと思いました。

また、中島みゆきで驚いたのは朝ドラの主題歌を歌ったわけですが、ドラマのオープニングで流れる歌唱よりも、今回の生歌の方が格段に良かったというところです。
逆に言うと、あのオープニングの歌は何なんだということですが、録音時に調子が悪かったのかもしれません。
いずれにしても、歌唱の良し悪しによって歌のイメージが大きく変わるのを感じて面白かったです。


期待外れだったのが、薬師丸ひろ子、中森明菜、松田聖子といった80年代のアイドル達ですね。

薬師丸ひろ子は本当に緊張しているようでしたが、『セーラー服と機関銃』の方が歌いやすかったのではと思います。

松田聖子も今ひとつでしたね。
印象に残ったのは、歌よりも娘の晴れ姿を見て涙を流さずに涙ぐんでいたところです。
春やすこを審査員に呼んでおいて欲しかったですね。
あるいは、郷ひろみと一緒に「レリゴー!」とやって欲しかったです。

一番の問題は明菜です。
本人のヤバそうな雰囲気もさることながら、曲がとにかく酷い。
作曲家に浅倉大介の名前を見た瞬間から嫌な予感満載でしたが、あの「レイブが20年間毎年来ているような曲」はさすがに厳しいものがありました。

私は、当時から完全に聖子派で明菜は嫌いでした。
今でも、聖子と明菜を並べて「当時の二大アイドル」などと言われると、「それは違う!」とつっこみます。
しかし、昨日の曲はさすがに可哀想になってしまいました。
復帰するのは良いのですが、もうちょっと環境を整えてあげるべきではないでしょうか?


番組の余興もどうかと思いましたね。
前回の『あまちゃん』をライブでやったのは良かったのですが、同じようなことをまたやるというのは本質的にセンスがないというか、手抜きという感さえあります。
聖子、明菜、薬師丸を出したこともそうですが、『あまちゃん』に引きずられすぎという気もします。

何度も書いていますが、『あまちゃん』は歴史を描いた作品であるがゆえに一つの終わりを提示している、という認識を持つべきではないでしょうか。
引きずってはいけないのです。

そもそも前回の綾瀬はるかもそうでしたが、いっぱいいっぱいの女優に無理に司会をさせてみんなで見守る的なことって、歌番組に相応しいのかという根本的な疑問があります。


また、子供枠として妖怪ウオッチとかディズニーアニメの歌がありましたが、私が感じたのは「宮崎駿の不在」ということです。
宮崎駿のような人がいなくなれば、ああいうものが子供達に与えられていくのだな、ということです。
ゲーム的なものとUSA的なもの、いずれも分かりやすいものですが、分かりやすいものしか分かろうとしない人が増えるような気もします。


他には、長渕剛やアップを頑なに拒否したと思われる美輪明宏などは一年に一回くらい見てもいいなという感じでした。
美輪明宏は桃組も断固として拒否したんでしょうが。

サザンのメッセージソングもいいのですが、歌番組としての本当の平和を願うメッセージというのは、数年前にやっていたように韓国や中国のアーティストを出すことでしょうね。
今回の紅白はK-POPの連中が出ていた頃と比べると、かなり閉鎖的な印象がありました。


いずれにせよ、紅白を続けるのなら二部構成を止めて3時間くらいに短縮して、普通の歌番組としてやるべきではないでしょうか。
あるいは逆に、前半は若いアーティスト、後半は演歌などのベテランに分けて、なるべく多くの歌手を出演させるようなやり方でもいいでしょう。
出演者が特定の所属事務所に偏るのは今の芸能界ではどうしようもありませんが、だったら枠を拡げて多くの人を出した方がいいでしょう。

とにかく、今のドラマの番宣のような紅白は歌や音楽を舐めていると思われても仕方ないものです。
CDの売上トップテンなどを見ると、舐められてもしょうがない面もありますが、そこは現状に流されないNHKの気概を見せて欲しいものです。

2014年10月30日木曜日

宮藤官九郎の『ごめんね青春!』は日本の前衛だ

テレビドラマ好き、というわけではありませんがそれなりに見ます。

大河ドラマの『軍師官兵衛』も見ていますが、これはダメです。
主演の岡田准一は悪くないのですが、竹中直人をかつての当たり役、秀吉に再びキャスティングしたというのが決定的に失敗です。
こういうことはするべきではないのですね。
1996年の『秀吉』では、「日本史上最大の成り上がり者である秀吉があんなお惚け野郎のわけがない」と思いつつも竹中の芸を楽しめましたが、それを再び見せたってしょうがないのです。
あれは竹中の一発芸だから良かったので、「だっちゅーの」を今見せられてもつまらないって話です。
中谷美紀も良くないです。
ああいう間延びしたしゃべり方は、武家の妻というよりも山崎拓の愛人なんかを感じさせます。
田中哲司の荒木村重は面白かったのですが、ドラマの運び方が人を見せると言うよりも「歴史のあらすじ」を再現、みたいな最近の大河ドラマのつまらない傾向を受け継いでいます。

一方、同じ日曜日の23時から地上波でやっている韓国の『太陽を抱く月』は面白いです。
最初は「架空の歴史ドラマ」ということでバカにして見ていなかったのですが、主役が大人になってからすっかりはまってしまいました。
確かに話としてはバカバカしいものです。
失われた記憶を取り戻しつつ初恋を成就させるという韓国ドラマにありがちなパターンで、よく考えるとこりゃないだろうと思うところも多々あります。
それでもはまってしまうのは、80年代の大映ドラマ的な見せたいものは全部見せてやる的根性と、それを含羞なく引き受ける役者の面白さでしょうね。
それに「80年代の大映ドラマ的」と言っても、日本よりもきっぱりとアメリカナイズされた韓国芸能の様相が「古さ」を消しているのです。

主演のホ・ヨヌ役のハン・ガインは子共時代をやったキム・ユジョンと比べて評判が悪いそうなのですが、私はいいと思いました。
ああいう線の太い女優は日本にはなかなかいないですね。吹き替えはぷちこの人で悪くはないですが、本人の声はもっと低くて迫力があります。
王妃役のキム・ミンソもいいです。
AVなどを見ると分かるのですが、歪んだ顔が絵になる女優というのはなかなかいません。
キム・ミンソの取り乱した顔は素晴らしいです。
ユン・スンアやペ・ヌリの嘘くささも、このドラマに実に合っていると思います。
男優もいいですが、妙にあっさりした感じの人を揃えましたね。
男優は日本の役者の方が面白いかもしれません。

とにかく、イ・ビョンフンの史実物もそうですが、日本の大河ドラマなどと比べると「面白さ」という点で韓国ドラマの方が歴然と勝っています。
これはもうちょっとどうしようもないのですね。


しかし、日本のドラマが全くダメかというと『ごめんね青春!』のような作品が突如として出てくるのですから油断なりません。
宮藤官九郎の『あまちゃん』以来のテレビドラマ脚本作品ですが、やはり全くの別格と言うしかないでしょう。

『あまちゃん』については以前書きましたが、「アイドルの歴史」を描いてしまった、というのが私にとっては決定的な事件でした。
「アイドルの歴史」って何だ?と思う方も多いでしょうが、簡単に言えばそれは松田聖子から宇多田ヒカルまでの30年間にだけ存在した時間です。

アイドルは松田聖子以前には存在せず、その後の発展的過程を経て辿り着いた宇多田ヒカルこそが最後のアイドル歌手だった。

これを一つの作品としてああいう形で見せられてしまったら、もうお手上げです。

私にとって、テクノ、パンク、アイドルという三大サブカルチャーが人生の主要テーマなのですが、アイドルについては『あまちゃん』で、そしてパンクについては『少年メリケンサック』で見事に一つの回答を示されてしまったのですから、宮藤官九郎というのは恐るべき男です(テクノについては、さすがに宮藤はやらないでしょうから自分で何とかしなければと思っています)。

前にも言いましたが、宮藤官九郎こそが宮崎駿を継ぐ者、すなわち国民的な何かを産み出すワーグナー的存在なのです。

それで、今やっている『ごめんね青春!』なのですが、これはかなり前衛的なところに踏み込んできたなという印象があります。

日本という国の一番の面白さは最も前衛的なものが最も大衆的、もしくは伝統的であるというところです。

宮藤官九郎や宮崎駿、あるいは宇多田ヒカルのようなセールス面においても日本を代表するアーティストが一番前衛的である、という事態は他の国にはあり得ないことです。

このことに人々はもっと驚くべきでしょう。

あるいは、先ほど『太陽を抱く月』を取り上げましたが、そもそも日本では実際に今現在、王(天皇)が存在し、王妃(皇后)と世子嬪(皇太子妃)が対立したり、王女が巫女をやったり神主に嫁いだりしているわけで、荒唐無稽な韓国ドラマが現実として存在しているのです。

だからこそ、『太陽を抱く月』のような架空の歴史ドラマなど作れないし必要とされないということもありますが、日本では伝統が一番前衛的である、というのはそういうことです。


先日、赤瀬川原平が亡くなりましたが、日本のような国で真に前衛的であるためにはかつて行っていたようなスキャンダラスなアート作品よりも、「トマソン」のようなやり方しかなかったのでしょう。

ああいうことは、糸井重里的な面白可笑しさに回収されかねない非常に際どい活動でしたが、「トマソン」の写真作品には前衛が大衆と伝統に飲み込まれる国の芸術のあり方が示されていると思います。

このことはまた、村上隆のようにアニメや骨董に擦り寄って前衛たらんとする似非外国人的な態度と厳密に区別されなくてはいけません。

2014年1月1日水曜日

ある意味、最終回にすべき紅白歌合戦

新年、明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。


昨日の大晦日はやはり紅白歌合戦を見ました。
一昨年と同様に、一年に一度だけ日本の歌謡界の現状というものを知る機会だと思って見たのですが、特に何もないという感じでした。

何もないというか、今や「枠」が固定化してしまい、決まった系統の人達のための番組という様相が強くなってしまった印象です。

まず、ジャニーズだけで司会も含めて5グループも出ているのですね。男性アイドルの独占化は揺るぎないようです。
6年前までは、ストーブさんがWaTとしてアイドル枠で出てマイクを倒されたりしていたのですが、今はジャニーズ以外の男性アイドルというのは存在しないのでしょうか。

そして、AKB関係が三組。EXILE関係も三組。

他にはアニメ枠というのがあって、何だかよくわからない絶唱系の人が歌っていましたが、グラサンの人は音響的にミスがあったと思います。
アニメ枠は二組だけですが、私としては、『大ちゃん数え唄」でデビューした天童よしみも入れたいですね。
さらに、ポルノグラフィティというバンドも入れたいです。なぜなら、このバンドだか何だか分からない人達の音楽はいつ聴いても全くつまらなくて、そこがアニソンっぽいからです。

賑やかし枠というのもあります。
ゴールデンボンバーとももいろクローバーZです。
ゴールデンボンバーはドリフのコントみたいなことをやっていました。一発屋だったようで去年と同じ曲でしたが、毎年、同じ曲でコントをやるというのも面白いかと思います。


私がいいなと思ったのは、miwaという人です。
ルックスも歌も良く、曲も良かったです。
声はかなり安定していて加工しているのかよく分かりません。ただ、この人はギターなどを見ても音楽的に優れていると思います。

あと、全然好きじゃないのですが泉谷しげるは悪くなかったと思います。
しかし、できるのなら三上寛が出て『夢は夜ひらく』を歌い、藤圭子の追悼をしてもらいたかったです。
三上寛が無理なら、荒川良々に歌ってもらっても良かったのですが・・・


その荒川良々演じる吉田副駅長から始まった『あまちゃん』ですが、結局、『あまちゃん』のための紅白だったという感が否めないよね、です。

さすがに、薬師丸ひろ子まで出てきて歌うとは意外で、感動してしまいました。

特に潮騒のメモリーズなのですが、やはりアイドルとはああいうものでなければいけません。
私としては、潮騒のメモリーズ=宇多田ヒカルなのですが、紅白のステージでは、うしろゆびさされ組でしたね。
橋本愛が結構普通にアイドル的なかわいさで高井麻巳子という感じでしょうか。

思い知ったか秋元康、というところですが、とにかくアイドルには「可憐さ」がないとダメなのです。

股間に顔写真付けて「慌てて衣装を逆さに」とかやっているのは、お笑い芸人です。というか、お笑いの人があれをやろうとしたら、「ちょっとそれは・・・」と止められるでしょう。
ふなっしーの精神異常者みたいな動きも同様ですね。
アイドルとゆるキャラがお笑い芸人の限界を超えるというのも面白いですが、正統派がいなければただのバカ大集合です。

もちろん、潮騒のメモリーズは正統派でもなんでもありません。ドラマの中の架空の存在なのですから。
しかし、そういうものにしか「正統派」があり得ない、ということが何で紅白に呼ばれていたのか分からない予備校講師の言葉を借りると、「今でしょ」ということなんだと思います。

この「正統派の不在」についてはアイドルだけに限らず、日本のポピュラー音楽全般に言えます。
それは技術的問題であり、今回の紅白を見ても、一般に歌が上手いと言われている徳永英明やDREAMS COME TRUEや西野カナなどは、私はあまり上手いと思いません。歌に癖が目立ちます。
アニメ枠の人もそうですね。
また、aikoくらいになると曲が良くてもあの歌では聴く気になりません。

また、中田ヤスタカ関連については、曲が面白くなくなったというか、あの作り方だと限界があるのでしょう。
最近の曲を聴くと、ボカロPみたいなメロディラインになっているようです。

サカナクションというのも初めて聴きましたが、「(ああ、ね・・・)たいしたもんだ」という感じです。
あと、「オリンピックのテーマソングを歌う人枠」というのがあって、これもまたつまらないのです。
miwaさんにはそういう人になって欲しくないですが、ちょっと危ないです。

ついでに美輪明宏ですが、平和への強い想いがあるのは分かります。しかし、それならば去年も言ったようにPSYと馬ダンスを踊って欲しかったです。
NHKも台湾から中継とか日和ったことをやっていないで、こういうときだからこそ韓国アイドルを堂々と出せばいいのです。
韓国アイドルが出てくると文化侵略だとか考える人がネットでは多いようですが、それは違います。

文化とは奪うものなのです。

実際に今の紅白をまともな歌番組として成立させようとすれば、韓国人でも中国人でもどんどん出すしかないのではないでしょうか。
外国からじゃんじゃん奪うべきなのです。

一方で、演歌の人は昔のヒット曲をアイドルにバックで踊らせて歌う、というスタイルに存在価値を見いだしているようですが、それでいいのでしょうか。
例えば、森進一などは急遽、『冬のリヴィエラ』に変更して大瀧詠一を追悼する、といったような気の利いたことをしても良かったと思います。

このままでは、サブちゃんのように50回も出るのは難しいでしょう。
そのサブちゃんですが、やはり年齢的にも限界なのでしょうね。
もうちょっと大御所の引退に相応しい壮大な大トリを予想しましたが、今回のおふざけムードに合わせた感じでこれはこれで良かったと思いました。


それにしても、『あまちゃん』の「第157話」、つまり本当の最終回を紅白でやるというのは、よく考えると凄いことです。
それはもう、紅白歌合戦じゃなくて『あまちゃん』なのです。

あるいは、「正統派アイドル」としての『暦の上ではディセンバー』が大友良英のノイズギターに乗せられたら、それはもう、アイドルではなくてノイズなのです。

そういう、倒錯こそが『あまちゃん』がもたらした本質的な面白さですね。


しかし、最大の倒錯は綾瀬はるかが司会をやった後で、今年以降まともな司会では誰も満足できなくなったということです。

紅白を止めるなら、「今年でしょ」ということでしょうか。

2013年10月30日水曜日

池永チャールストーマスの逮捕と宮崎駿の引退で、今やアニメに全く関心をなくしてしまいました

私は、昔からオタクと呼ばれるタイプでした。
一口にオタクといってもいろいろですが、1960年代生まれをオタク第一世代と呼ぶらしく、1968年生まれの私は第一世代の最後の方になります。
中高一貫の私立に通っていたのですが、天文部に所属していまして三学年上くらいの先輩がまさしくオタク族の王道を行く男でしたね。
風貌は今や2ちゃんねるのアスキーアートでしか見られないような、ザ・オタクとしか言いようがないルックスで、『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスの全台詞を裏声で暗唱しているのを聴かされたりしました。

真のオタク体験とはこういうものであって、宮崎駿がいくら今の萌えアニメを全否定しても彼がオリジネーターであることは、我々の世代にとっては否定しがたいことなのです。

もっとも、そういう私自身もオタクでした。
『うる星やつら』のオタクです。

最初は高橋留美子のマンガの方にやられました。
東急東横店の食堂で、黄色と赤色のゼリーが混ざった奴を食べながら最初に『うる星やつら』を読んだときの衝撃は今でも覚えています。
少年漫画と少女漫画、劇画とマンガの全てを取り入れつつ、そのどれでもない全く新しい表現を確立していた高橋留美子の天才は、私の人生に強い影響を与えたと思います。

その後、当然のようにアニメにものめり込みオタクの道を深めたのですが、押井守監督の劇場版第2作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』あたりで興味を無くしました。
あの作品は、オタクの主流派からは今も高く評価されているようですが私にはダメでした。
同時上映の吉川晃司が主演した『すかんぴんウォーク』の方が面白かったくらいです。

高橋留美子もあの作品には全く否定的で、見た後で押井に「人間性の違いです」と言い放って帰ったというエピソードが有名ですが、高橋の『うる星やつら』とは方向性がまるで違うと思います。

私は高橋がマンガで描いた、あの訳の分からない連中がデタラメに動くだけの雰囲気が好きだったのですが、押井の『ビューティフル・ドリーマー』はそこに一つの明確な原理を持ち込み完結した世界を構築しようとします。
したがって、押井の方が正統的なSF作品としては優れたものであり、だからこそ本来的にSFを好むオタクの主流派にも人気があるのでしょうが、やはり高橋の世界観とは相容れないものだと思います。

こうして、アニメオタクから醒めて高校生になった私は、一方でアイドルオタクであり、シンセオタクであり、パンクロックが好きだったりしました。
ようするに、1980年代半ば特有の「何でもあり」をポストモダニズムで正当化して消費に明け暮れるような高校生だったのです。
ちなみに、ゲームについては、私は生まれてから45年、テレビゲームだろうが、カードゲームだろうが、スポーツだろうが、パズルだろうが全く興味がありません。

その後、宮崎勤の事件があったりして10年以上アニメには無関心、というか遠ざけていましたが、1998年に『REVIVAL OF EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)² / Air / まごころを、君に』を劇場で見ました。
サブカル周辺で話題になっていたので見てみたのでしょうね。
それなりに面白かったですが、特に引きずったりはしませんでした。

しかし、それから5年くらい経って(つまり今から10年前)、はてなでブログなどをやり始めたのがよくなかったです。
アニメの話題というのは、ネットでは受けるのですね。
受けるので、ついつい興味があるふりをして書いてしまうのです。
例えば、『涼宮ハルヒの憂鬱』などは小説を最初の数行読んだだけで、「下らねぇ」と思いました。
しかし、ブログに何か書くために読んでみてアニメなどを見ると、結構はまってしまうのです。
まあ、確かに『ハルヒ』や『らき☆すた』にはそれなりに面白いところもありました。
しかし、『けいおん!』になると全くだめですね。

以前、吾妻ひでおが『けいおん!』について、「ちょっとしたフェティシズムがあるだけ」と評していましたが、さすがに吾妻ひでおだと思いました。
『ハルヒ』が「観念と対立するフェティシズムを示すだけ」、『らき☆すた』が「フェティシズムについてだけ」だとすると、『けいおん!』はまさに「フェティシズムがあるだけ」なのです。
そういう意味では、この2006年から2010年にかけての京アニ三部作に萌え系アニメの全てがあるとも言えます。

「萌え」については、ずいぶんややこしい議論をしていた人もいましたが、結局は洗練されたフェティシズムに過ぎません。
ようは「粋なフェティシズム」であって、九鬼周造の『「いき」の構造』でも読めば十分でしょう。


そして、2010年以降も録画機能付きのテレビを買ってアニメを録画で見たりしていたのですが最近はすっかり飽きました。
「こりゃ、下らない」と思ったのは『輪るピングドラム』あたりからでしょうか。
ついつい最後まで見てしまったのですが結局、「思わせぶり」しかないと思いました。
『魔法少女まどか☆マギカ』なども録画したものの全く見る気が起きません。

テレビドラマも見ないのですが前回書いたように、『あまちゃん』は見ました。
やっぱり、違うのですね。
映像としてはアニメも面白いのですが、「言葉の精度」が宮藤官九郎のような人が作るドラマとテレビでやっているようなアニメではやはり違うのです。

もちろん、宮崎駿は別格です。
彼はよく「世界を変えるつもりでやらきゃダメだ」などと言いますが、それは「革命のビジョンを提示する」とかそういうことではないのですね。
そうではなくて、「世界を変える」とは「歴史を描ける」ということです。
『あまちゃん』でも歴史を描いているというのが、やはり一番凄いところなのです。

その宮崎が半藤一利と対談した『半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義』で、「一つのジャンルが盛んになって終わりを迎えるまでの時間はだいたい五十年だと言った先輩がいました」と語り、日本のアニメも五十年経ってしまったのでそろそろ終わりじゃないか、というようなことを言っていました。

実際そうなのだと思います。
宮崎本人の引退と共にアニメは終わりなのかもしれません。

一方で、この前の三鷹ストーカー殺人事件で、犯人の池永チャールストーマスが、中学時代に『ハルヒ』が好きなアニメオタクで、『ハレ晴レユカイ』か何かを踊っていた、という友人の証言がありました。

私は以前から、あの手の踊ったりする「明るいオタク」に何か不気味なものを感じていましたが、それが表出したような気がします。
この酷い事件は、宮崎駿の引退とともに私をアニメからいっそう遠ざけました。


いずれにせよ、自分の好きなものを受け狙いで曲げたりするとダメだ、というのは私にとって大きな教訓になっています。

2013年9月30日月曜日

『あまちゃん』と歌、あるいは潮騒のメモリーズは宇多田ヒカルだった

『あまちゃん』とは何だったのか?

一言で言えば、「アイドルと歌はどうあるべきか?」ということを提示したドラマということではないでしょうか。


一昨日の『中森明夫×宇野常寛 『あまちゃん』を語りつくす!』というニコニコ生放送で、中森氏が『あまちゃん』とAKBの対立関係について考える必要がある、というようなことを言っていたと思います。
私も同感です。
宇野氏は、『あまちゃん』ではAKBが実践している新しいアイドルのあり方について描けていないのでこのドラマは過去を清算する役割しかないなどと言っておりましたが、それはAKBファンが些末な差異に過剰に現代性を見ているとしか思えません。

中森氏は雑誌のインタビューを引用してクドカンのAKBに対する無関心さを挙げ、さらに踏み込んで本当は嫌いなんじゃないかということを推測していましたが、私もそう思います。
宮藤官九郎という人は1970年生まれで、中心世代より若干年下になりますがおニャン子クラブに直接影響を受けたと世代と言えるでしょう。インタビューでも『夕焼けニャンニャン』を見ていた話をよくしています。
また、2年前にやっていた『シロウト名鑑』という番組で「割れたチョコレート」という素人アイドルグループを作ったりしていましたが、あれを見ても実に夕ニャン-おニャン子世代だということがよく分かります。
と、同時にこの人はパンクロックにも強い影響を受けています。
『あまちゃん』の音楽番組でわざわざ「スターリン」(という有名な日本のパンクバンドがあるわけですが)Tシャツを着て登場するちょっと痛いパンクおじさんです。
そして、これが重要なポイントですがパンクとおニャン子は共存するのです。
私自身がそうでしたからよく分かります。
理由はおニャン子クラブこそが日本におけるパンクだったからです。
「ビートルズもTレックスもなかった日本にパンクロックなど存在するはずがない。しかし、確かにそれは存在した。全く別のものとして」というのが宮藤官九郎が監督した大傑作映画、『少年メリケンサック』の教えるところですが、それでは日本で英国におけるパンクの役割を果たしたのは何かと考えると、それはおニャン子クラブ以外にはないのです。

そんなクドカンがパンク精神の欠片もないAKBなどを、小バカにしてネタにするのは当然なのですが、中森氏はその辺りのところを敏感に感じ取ったようです。


余談になりますが、私の記憶では83~84年当時、小泉今日子、というよりKyon2を時代の象徴として祭り上げた中森氏他2名の「新人類」によるニューアカサブカル言説の輝きが、85年以降のおニャン子の登場によって急速に失われていったという印象があります。
フランス現代思想風にイメージとして語られた資本主義の速度がおニャン子によって現実化した瞬間、その価値を失ったといいますか。
そして、あの当時中森氏のような「新人類」はそのことに為す術も無く傍観していたのです。
したがって、中森氏は宇野氏のような若い連中といっしょになってAKBなどにうつつを抜かしている場合ではないのです。
今度こそ抵抗しなければならないのです。
『あまちゃん』がそのきっかけを与えたとすれば素晴らしいことです。


さらに重要なことは、「新人類」の人達が小泉今日子=Kyon2を賞賛した最大の根拠として挙げられるのが、「何も考えていないこと」=「無意識の強度」とも言うべきものだったことです。
実際に当時の小泉が本当に何も考えていなかったかは分かるはずもありませんが、「ブリッ子」などと言われた松田聖子には自分をかわいく見せようとする自意識が多分に垣間見えたのに対し、小泉にはそれが感じられなかったことは確かで、同期の他のアイドルと比べても内面を感じさせないアイドルの表層性は際立っていました。

この「無意識の強度」という問題について、『あまちゃん』で決定的に重要なシーンがあります。

小泉演じる春子が、ウニが獲れないと悩んでいるアキに対して次のようにアドバイスするのです。

「長く深く潜るために必要なものって何だと思う?」
「(人間が一番酸素を使う器官は脳だと説明して)脳みそを使えば使うほど、考えれば考えるほど酸素を必要とするんだってよ」

それに対してアキが、「脳みそを使わなければ長く潜れるってことか。だったら得意中の得意だっぺ。楽勝だべ」などと気楽に言って春子を呆れさせるのですが、このやり取りには「無意識とバカ」、つまり「人はバカにならない限り真の無意識に達することはできない」という根源的な問題が提示されています。

中森氏は、クドカンが能年がグループ魂に加入したときの名前を「空洞」にするというラジオでの話を引用し、宮藤が能年を「空っぽの存在」(「心がない」などと言っておりましたが)と見てアキというキャラクターを作ったのではないか、という指摘をしておりましたが私もそう思います。

中森氏は『午前32時の能年玲奈』などという本を出すほど能年玲奈を評価しているようでしたが、80年代の「無意識のKyon2」から「空洞の能年」に一つの可能性を見いだしているのかも知れません。


ここで本題に戻りますが、アイドルが本来あるべき姿は春子の発する言葉に込められていると思います。

「普通にやって普通に売れるもん作りなさいよ」

AKB的な仕掛けで売るようなアイドルはダメだってことです。

また、春子のこの台詞は太巻が『地元に帰ろう』のボーカルにピッチコレクトを掛け、「ロボットみたいな宇宙人みたいな声」に変更したことに怒鳴り込んで来たときのものであって、直接的にはPerfume批判であることも見逃せません(合同結婚式の余興ではPerfumeでヒビキ一郎が怪我をするという始末です)。

ようするに、仕掛けのAKBと声いじりのPerfumeという現代アイドルの二つの主要な方向性を同時に批判しているわけです。


一方で、春子と鈴鹿ひろ美の『潮騒のメモリー』を巡る関係も極めて重要な問題を孕んでいます。

おさらいしますと、鈴鹿ひろ美があまりにも音痴だったために春子が影武者として代わりにレコーディングをし、歌番組で吹き替えで歌ったのですね。
春子はそのせいでデビュー出来ず、ずっとわだかまりを持っていたのですが、『潮騒のメモリー』を歌うアキを通して鈴鹿と一応和解します。
その後、鈴鹿が復興イベントで自らの声で歌いたいと言い出して、春子が特訓するのですが、その成果がよくわからないまま本番で鈴鹿は見事な歌を聴かせるというわけです。
ところがこのときに春子が考えるのです、実はわざとだったのではないかと。
つまり、本当は上手く歌えるのに今までわざと下手に歌っていたのではないかと思うわけです。
その真相はあきらにされないまま、二人は春子の84年部屋で真の和解を遂げるのです。

この奇妙に入り組んだストーリーには歌についての真実が込められていると思います。

まず、歌は自分の声で歌わねばならない。
そして、その上手下手については実は誰にも分からないということです。
分からないからこそ面白いのであって、機械的に一つの方向に矯正されればそれはつまらないのです。

例えば、甲斐さんに「4番より春ちゃんのほうがうまいしさ」と指摘された新田恵利が下手かどうかは実は分からないのです。
本人は放送後、ブログで不満を述べていましたが、私は実は上手いと思っています。
あの音程の動きはマイ・ブラッディ・ヴァレンタインに通じるものがあります。

また、実際の小泉今日子と薬師丸ひろ子を考えても面白いですね。

二人の歌い方は対照的で小泉は話し声ベースの子供的男性的声、薬師丸はファルセットベースの大人的女性的声。
この二つの声が最後に交差し和解するというのも、歌が持つ本来的な両義性を伝えています。


ところで、最終回にはこの二人は出てきませんでした。
歌はアキとユイの潮騒のメモリーズに託されたのでしょうか?

私は上で述べたように、おニャン子世代としてのクドカンを考えていたので、当初はAKB的なものに対しておニャン子的なものを対峙する構図を考えていました。
実際に、雑多な者の寄せ集めであるGMTはおニャン子的ではあります。
その中から潮騒のメモリーズが、おニャン子クラブのコアであったうしろ指さされ組のように真のアイドルとして描かれることを想像していましたが、違いましたね。
潮騒のメモリーズはアキとユイの友情の象徴ではあるものの、歌はアイドルであるための一つの手段に過ぎないのです。
その意味では今流行っているアイドル的であると言えるでしょう。


一方で私はドラマを見ていて、能年玲奈が演じる天野アキは誰かに似ていると思っていました。
途中で気がついたのですが、それは宇多田ヒカルです。

ニューヨークに生まれ日本でブレイクした後、アメリカ進出したもののパッとせず再び日本に戻って活躍した宇多田ヒカルは、東京に生まれ北三陸でブレイクした後、東京に行きアイドルになったもののパッとせず再び北三陸に戻って活躍した天野アキと重なります。
そして、曲は売れても結局は自分の望むような歌手になれなかった藤圭子と、影武者としての自分の声がヒットしても自身としてはデビューできなかった春子。両者が同じ相手と結婚、離婚を繰り返し、娘に夢を託すところも同じです。
また、宇多田の「U3MUSIC」のように家族で立ち上げた芸能事務所の名前が「スリーJプロダクション」ということを考えても、宇多田ヒカルとアキの類似性はある程度考えられていたのかもしれません。

私は宇多田はアイドルだと思います。
いや、宇多田ヒカルこそが最後のアイドル歌手なのです。

天野アキ=宇多田ヒカル説は、『あまちゃん』におけるアイドルと歌の問題を考えるとき、一つのキーになるでしょう。

ただ、この主張には一つ問題があります。

ユイの立場がないのです。これではいくらなんでもユイが不憫です。
と思っていたところ、週刊誌に母親が亡くなってグレてしまい、ブティック今野で買ったような豹柄ドレス姿でタバコをふかす宇多田の写真が掲載されてしまいました。

ユイです。宇多田のユイ化が地球の裏側で『あまちゃん』と同時進行で進んでいたのです!

潮騒のメモリーズの本質は真のアイドルとしての宇多田ヒカルだったのです。

2013年8月1日木曜日

ジブリの新作アニメが公開される度にやる怒濤のプロモーションはあれでいいのだろうか

漫画家のとり・みき氏による宮崎駿監督作品『風立ちぬ』の批評を読んだのですが、冒頭に「本当にそうだな」と思うようなことが書いてありました。

もはや宮崎アニメと村上春樹作品は、新作がリリースされれば、人は皆なにがしかの感想なり批評なりを述べなければいけないような雰囲気になっている。誰からいわれたわけでもないのに、おのれの見解と立場を表明しなければいけないような圧力が、少なくとも私のTLには充ち満ちる。かくして多くの人は、他人の顔色をうかがいながら恐る恐るつぶやく。

求められてもいないのに。

いや、批評家や評論家の人はいいのですよ。それが仕事だから。

こう見えても私は本業でマンガ家をやっているので、他人の、とくに自分に近いジャンルの創作物の批評には慎重だ。あたりまえだ。発する言葉はすべて自分に返ってくるからだ。

そういうことに覚悟を決めて、あるいは棚によじ登って、あるいはまったく無自覚で、気軽に辛辣な感想をつぶやいている創作者もいるけれども、あいにくなのか幸いなのか、私は覚悟も棚も無自覚も持ち合わせがないので、求められていなければ、たいていの場合スルーする。

誰も彼もがブログやSNSなどで「宮崎アニメと村上春樹作品は、新作がリリースされれば」こぞって批評めいたことを書きたがるというのは、ネットを眺めていればよく分かりますね。

かくいう私も、昔はそういうことをやっていました。
たいして興味のない『崖の上のポニョ』などを見ては、人が言わないような部分をクローズアップしたり知能の足りない人が腹を立てるようなことをブログに書き一時的に話題になっては、「フッフッフ」などと一人ほくそ笑んでいたものです。

しかし、こういうことは文章を書く練習や人々の反応を知るには良い経験でしたが、それ以上のものは何もありませんでしたね。

昔は「批評なんていうのはブログに書くべきもので、わざわざ本にするべきものではない」などと考えていましたが、それは間違っていました。
批評を書くのなら本に書くべきなのです。
紙の本でなくても、有料の独立した形態ならば電子ブックでも良いのですが、いずれにせよ、批評のようなものをちょろちょろと日記気分で書くようなことは間違っていると思うようになりました。

特に、とり・みき氏が書いているように、創作をやっている人が批評を書くというのは、よほどの覚悟がない限りやるべきではないでしょう。
とり・みき氏は「あるいは棚によじ登って、あるいはまったく無自覚」とソフトに書いていますが、ようは「恥知らず」ということです。

これは「自分に近いジャンルの創作物の批評」についてですが、そういう恥知らずな人間が自分のやっていることから遠いジャンルの批評を書く場合、自分のテリトリーの知識だけで分かったような気になって、半端な技術論を振りかざす批評などを書いてしまうのです。

こういうのは批評された側からすれば、「いや、お前映画撮ったことないだろう」みたいな反応しか生まないのですね。
「誰が言ったのかはどうでもよい。意見は意見として読んで欲しい」みたいなことを言う人もいますが、これは違います。
批評というのは、「誰が言ったか」という前提からは逃れられないのです。

とにかく、この手の批評をやりたいのか創作をやりたいのか、どちらにせよ自分を偉く見せたいというタイプの人間の書くものは読んでいるこちらが恥ずかしくなってしまいます。

しかし、人は他人の恥ずかしさを求めるという困った習性があるので(私にもあります)、それなりに読まれてしまって需要と供給の悪循環に嵌まってしまうようです。
言わずもがな、私も気を付けなければいけないということです。


ところで最近、テレビで現在公開中の映画『風立ちぬ』のプロモーション番組を盛んにやっていますね。
8月26日放送のNHKドキュメンタリー『プロフェッショナル 仕事の流儀』でも、いつもの宮崎駿監督の密着取材をやるようです。

番組最多となる3度目の出演だそうで、『千と千尋の神隠し』と『崖の上のポニョ』に続いてということでしょうか。『仕事の流儀』ではないのでしょうが『もののけ姫』でも制作過程のドキュメンタリーをやっていました。
ジブリは宮崎駿監督作品以外でも近年は新作公開の度にこういう番組をやっていますね。少なくともNHKと日テレでは必ずやるのではないでしょうか。

今回のプロモーション番組も既に2つくらい見ました。
中には結構詳細に作られた数分間のダイジェストを流している番組もありましたが、さすがにあれはどうなんだと思います。
正直、見る前に「お腹いっぱいだよ」という感じになってしまいます。

ジブリのああいう体制だとある程度の興業成績を求められるのか、宣伝を大々的にやらなければならないのかもしれませんが、逆にやりすぎると飽きてきて、「今見なくてもいいか。どうせ、1年半後くらいには金曜ロードショーでやるんだし」みたいな気になってきます。

しかも困ったことに、宮崎監督、鈴木プロデューサーともキャラが立っていて、下手したら本編のアニメより制作ドキュメンタリーの方が面白かったりするから厄介です。

それでも、映画館に行って見てしまうのはブログに批評を書かないと気が済まないから、という人も多いでしょう。

こういうことも含めて、ジブリの新作アニメは現代日本の祝祭のようなものなのかもしれません。

2013年7月27日土曜日

春子は『潮騒のメモリー』をカバーできなかったが、小泉今日子のデビュー曲はカバーだった

皆さんは、NHKの連続テレビ小説『あまちゃん』をご覧になっているでしょうか。
私は見ています。
1日2回、下手したら3回くらい見ています。

このドラマは脚本が宮藤官九郎ということで始まる前から話題でしたが、現在101話を迎えて期待に違わぬ人気と評価を得ています。

私は今の日本において、宮藤官九郎という人は別格に優秀な作家だと思います。
もちろん宮藤氏は作家というよりもテレビドラマの脚本家であり、映画監督、役者、バンド活動など様々な分野で活躍していますが、脚本から繰り出される言葉の精度を思えば、まずは作家としての評価が相応しいのではと思います。

現在の日本では、先日取り上げた宮崎駿と村上春樹の両氏が国民的と形容されるようなアニメ映画監督と小説家の位置にありますが、今後はドラマの作家として宮藤氏が、純文学の作家として中原昌也氏が日本文学の最前線で作品を生み出していくのではないかと考えています。

その宮藤氏の作品であり、また、NHKはドラマ制作においては比較的自由な環境で作品を生み出していることから、『あまちゃん』は良い作品になるだろうと予測していました。
ただ、連続テレビ小説は主演女優に大きく左右されるフォーマットなので、宮藤氏の一見悪ふざけのように見えて実は難しい作品を新人に近いような女優に上手く演じられるのかという不安がありました。

しかし、能年玲奈は大当たりでしたね。

宮藤氏の作品では、キャスティングの重要性とその素晴らしさは言うまでもないでしょうが、『あまちゃん』も主演女優が成功したことで、他の「この人以外に誰がこの役をやるんだ」と言いたくなるような役者同士が、必然的に完成された一つの世界を作っているのでしょう。

その「この人以外に誰がこの役をやるんだ」の筆頭に挙げられるのが、春子役の小泉今日子だと思います。

鈴鹿ひろ美の影武者であった春子は、太巻に本当は自分が歌っていた『潮騒のメモリー』を新たにカバーとして歌わせて欲しいと訴えるのですが、鈴鹿が承諾しないことを分かっていた太巻は「君にはプライドがないのか」と言って反対します。
そして、このことで春子と太巻は決裂して、20年後にアキが太巻に冷遇される原因になっていくのですね。

ところで、小泉今日子はポスト聖子として多くのアイドルがデビューした82年組の一人ですが、彼女のデビューシングルは実はカバー曲でした。
1979年発売の森まどかが歌った『ねえ・ねえ・ねえ』のカバーなのですが、小泉のヴァージョンではキーが少し上げられ、タイトルは『私の16歳』に変えられました。
したがって、カバーと言うよりも「あまり売れなかったが良い曲の使い回し」と言った方が正確かも知れません。
今だとグラビアアイドルなどが昔の名曲をカバーすることは珍しくありませんが、当時はアイドルのデビュー曲でカバーというのは稀でした。
ですから、カバーということはほとんど表に出されず多くの人が小泉のデビューのために作られた新曲だと思っていたのです。
とはいえ、今だと逆にいいんですが、70年代のディスコ調を引き摺る曲調は当時だと何となく古い印象がありました。
ちなみに、『私の16歳』というタイトルは前年の松本伊代のデビュー曲にしてアイドル史上に輝く名曲、『センチメンタル・ジャーニー』の有名な一節、「伊代はまだ、16だから」にインスパイアされたのではないかと思います。

ようするに小泉のデビューは、使い回しの曲と新たに付けられたバッタもんくさいタイトル、そして露骨に松田聖子の二番煎じを意識したルックスと、今考えると結構手抜きっぽい感じだったのです。
これは彼女が所属するバーニングプロダクションが今よりも荒っぽい運営をしていたからかもしれませんが、デビュー当時の人気も今ひとつパッとしないものでした。
トップアイドルと呼べるようになったのは2年後の『 渚のはいから人魚』を出した辺りで、その頃はショートカットにして洗練されたイメージでしたね。
そして、その後は髪を刈り上げて「Kyon2」となり、アイドルの次のフェーズを自ら切り開いていくわけです。

それはともかく、「本当はオリジナルである自分の歌をカバーしたいと訴える春子」を演じる「かつてカバーを歌わされた若き日の小泉今日子のカバーのような有村架純」という倒錯性は、宮藤官九郎の面白さの神髄だと思います。