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2014年10月30日木曜日

宮藤官九郎の『ごめんね青春!』は日本の前衛だ

テレビドラマ好き、というわけではありませんがそれなりに見ます。

大河ドラマの『軍師官兵衛』も見ていますが、これはダメです。
主演の岡田准一は悪くないのですが、竹中直人をかつての当たり役、秀吉に再びキャスティングしたというのが決定的に失敗です。
こういうことはするべきではないのですね。
1996年の『秀吉』では、「日本史上最大の成り上がり者である秀吉があんなお惚け野郎のわけがない」と思いつつも竹中の芸を楽しめましたが、それを再び見せたってしょうがないのです。
あれは竹中の一発芸だから良かったので、「だっちゅーの」を今見せられてもつまらないって話です。
中谷美紀も良くないです。
ああいう間延びしたしゃべり方は、武家の妻というよりも山崎拓の愛人なんかを感じさせます。
田中哲司の荒木村重は面白かったのですが、ドラマの運び方が人を見せると言うよりも「歴史のあらすじ」を再現、みたいな最近の大河ドラマのつまらない傾向を受け継いでいます。

一方、同じ日曜日の23時から地上波でやっている韓国の『太陽を抱く月』は面白いです。
最初は「架空の歴史ドラマ」ということでバカにして見ていなかったのですが、主役が大人になってからすっかりはまってしまいました。
確かに話としてはバカバカしいものです。
失われた記憶を取り戻しつつ初恋を成就させるという韓国ドラマにありがちなパターンで、よく考えるとこりゃないだろうと思うところも多々あります。
それでもはまってしまうのは、80年代の大映ドラマ的な見せたいものは全部見せてやる的根性と、それを含羞なく引き受ける役者の面白さでしょうね。
それに「80年代の大映ドラマ的」と言っても、日本よりもきっぱりとアメリカナイズされた韓国芸能の様相が「古さ」を消しているのです。

主演のホ・ヨヌ役のハン・ガインは子共時代をやったキム・ユジョンと比べて評判が悪いそうなのですが、私はいいと思いました。
ああいう線の太い女優は日本にはなかなかいないですね。吹き替えはぷちこの人で悪くはないですが、本人の声はもっと低くて迫力があります。
王妃役のキム・ミンソもいいです。
AVなどを見ると分かるのですが、歪んだ顔が絵になる女優というのはなかなかいません。
キム・ミンソの取り乱した顔は素晴らしいです。
ユン・スンアやペ・ヌリの嘘くささも、このドラマに実に合っていると思います。
男優もいいですが、妙にあっさりした感じの人を揃えましたね。
男優は日本の役者の方が面白いかもしれません。

とにかく、イ・ビョンフンの史実物もそうですが、日本の大河ドラマなどと比べると「面白さ」という点で韓国ドラマの方が歴然と勝っています。
これはもうちょっとどうしようもないのですね。


しかし、日本のドラマが全くダメかというと『ごめんね青春!』のような作品が突如として出てくるのですから油断なりません。
宮藤官九郎の『あまちゃん』以来のテレビドラマ脚本作品ですが、やはり全くの別格と言うしかないでしょう。

『あまちゃん』については以前書きましたが、「アイドルの歴史」を描いてしまった、というのが私にとっては決定的な事件でした。
「アイドルの歴史」って何だ?と思う方も多いでしょうが、簡単に言えばそれは松田聖子から宇多田ヒカルまでの30年間にだけ存在した時間です。

アイドルは松田聖子以前には存在せず、その後の発展的過程を経て辿り着いた宇多田ヒカルこそが最後のアイドル歌手だった。

これを一つの作品としてああいう形で見せられてしまったら、もうお手上げです。

私にとって、テクノ、パンク、アイドルという三大サブカルチャーが人生の主要テーマなのですが、アイドルについては『あまちゃん』で、そしてパンクについては『少年メリケンサック』で見事に一つの回答を示されてしまったのですから、宮藤官九郎というのは恐るべき男です(テクノについては、さすがに宮藤はやらないでしょうから自分で何とかしなければと思っています)。

前にも言いましたが、宮藤官九郎こそが宮崎駿を継ぐ者、すなわち国民的な何かを産み出すワーグナー的存在なのです。

それで、今やっている『ごめんね青春!』なのですが、これはかなり前衛的なところに踏み込んできたなという印象があります。

日本という国の一番の面白さは最も前衛的なものが最も大衆的、もしくは伝統的であるというところです。

宮藤官九郎や宮崎駿、あるいは宇多田ヒカルのようなセールス面においても日本を代表するアーティストが一番前衛的である、という事態は他の国にはあり得ないことです。

このことに人々はもっと驚くべきでしょう。

あるいは、先ほど『太陽を抱く月』を取り上げましたが、そもそも日本では実際に今現在、王(天皇)が存在し、王妃(皇后)と世子嬪(皇太子妃)が対立したり、王女が巫女をやったり神主に嫁いだりしているわけで、荒唐無稽な韓国ドラマが現実として存在しているのです。

だからこそ、『太陽を抱く月』のような架空の歴史ドラマなど作れないし必要とされないということもありますが、日本では伝統が一番前衛的である、というのはそういうことです。


先日、赤瀬川原平が亡くなりましたが、日本のような国で真に前衛的であるためにはかつて行っていたようなスキャンダラスなアート作品よりも、「トマソン」のようなやり方しかなかったのでしょう。

ああいうことは、糸井重里的な面白可笑しさに回収されかねない非常に際どい活動でしたが、「トマソン」の写真作品には前衛が大衆と伝統に飲み込まれる国の芸術のあり方が示されていると思います。

このことはまた、村上隆のようにアニメや骨董に擦り寄って前衛たらんとする似非外国人的な態度と厳密に区別されなくてはいけません。

2013年7月26日金曜日

祖国から追放されたカーネル・サンダースとアイコンとしての宮崎駿

ネットには全く流れていないようですが、昨日の東京新聞に驚くべき情報が掲載されていました。

『カーネル 祖国追放』と題されたその記事によれば、ケンタッキー・フライド・チキンでお馴染みのカーネルおじさんことカーネル・サンダースが、なんと米KFCの新店舗から続々と追放されているというのです。

驚くべきことですね。驚いていない人は驚かないといけないということです。

カーネル・サンダースと言えばアメリカ合衆国のアイコンとも言うべき存在です。
この「暗く血まみれの大地」という名に因むケンタッキー州の名誉大佐サンダースは、ガソリンスタンド経営からフライドチキンレストランへと手を拡げるもモータリゼーションに翻弄され、65歳にして無一文になりました。
しかし、その後、南部の正装であるあの白いスーツに身を包みケンタッキーフライドチキンのフランチャイズ化に成功。
まさに、ファーストフードの象徴でありアメリカの20世紀を体現した人物といっていいでしょう。

そのサンダースが米国であたかも大佐の名誉を剥ぎ取られるかのごとく、姿を消されているというのです。
あの、道頓堀川に沈められても20年以上の時を経て浮かんできたサンダース大佐がですよ。

理由は、KFCのヘルシー指向だということです。
現在、KFCは「KFCイレブン」というヘルシー志向の店舗を展開しているようで、そのイメージに恰幅の良いカーネル・サンダースは合わないと判断され、大佐は用済みになってしまったということです。

これはアメリカ合衆国が今、重大な転換期にある一つの証左と捉えるべき事件です。

ところで現在、日本では宮崎駿監督による5年ぶりの新作、『風立ちぬ』が大変話題になっています。
宮崎監督の集大成的作品のようですが、ゼロ戦の開発者の話ということで誤解を恐れたのか、公開直前にジブリの機関誌『熱風』で安倍政権が目論む改憲の愚を訴え、賛否両論を巻き起こしました。

一方でここ最近、クールジャパンなどと称されるコンテンツ政策が持て囃されていますが、宮崎監督自身はそのような国家主導による対外文化宣伝や輸出政策に貢献する気は全くないでしょう。
しかし、日本発の世界に通用するコンテンツとしては、ジブリ、宮崎駿が筆頭に挙げられることは言うまでもありません。

そうであれば、将来宮崎監督が亡くなったとき、クールジャパンのアイコンとして監督が祭り上げられる可能性は少なくありません。
つまり、かつてのクールアメリカの象徴がカーネル・サンダースだとすれば、クールジャパンの象徴はディレクター・ハヤオなのです。

ディレクター・ハヤオの人形がジャパニメーション専門の映画館、あるいはボーカロイド専門のライブハウスに設置される日が来るのかもしれません。

それを目指してこそのクールジャパンなのです。