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2014年11月30日日曜日

BOOKSCANを利用してみて

以前、手持ちのCDを全てAIFFフォーマットでiTunesに入れたという記事を書きました。
そのときに、本の自炊は大変だから業者に頼むと書いたのですが、二ヶ月ほど前からBOOKSCANという電子書籍化サービスの最大手に依頼しています。

最初は、部分的に電子化したい雑誌や薄い本などは自分でスキャンしてやっていたのですが、やはり大変ですね。

こういう作業というのは流れを掴んでルーティンワーク化すれば案外速くできたりもするのですが、量が多いと体が持ちません。
体調が悪くなってしまいますね。
工場での単純労働なんかは、やはり人間を非常に消耗させるものだと思います。

もっとも私が使っているのはプリンターといっしょになっているフラットヘッドスキャナなので、自動的に紙を送るドキュメントスキャナよりも格段に手間がかかるということはあります。
ただ、ドキュメントスキャナーの場合、本を綺麗に裁断するために裁断機が必要になります。
あれが嫌なんですね。
ああいうものを家に置きたくはないのです。
それに、ドキュメントスキャナと裁断機を新たに購入するとなると7~8万はかかってしまいます。
それならば、自炊する量にもよりますが業者に頼んだ方がいいということになります。
ただし、一枚書類を大量にスキャンする必要のある人は、ドキュメントスキャナを購入した方が良いと思います。フラットヘッドスキャナの場合、一枚一枚スキャンを待つというのが非常に疲れるんですね。


そういうわけで、BOOKSCANを利用してみた感想ですが、大変に素晴らしい、とは言えません。

これまで作業が済んだもので、3回ほど、計170冊くらい(費用は送料を含めて26,000円程度)依頼したのですが結構斜めにスキャンされるものがあります。
これは、元の本が斜めの場合が多々あるということで、確かにそうなんでしょうが、スキャンも雑なんじゃないかと思います。
斜めすぎて文字切れがあるものが2冊ほどありましたが、これらは再スキャンしてもらいました。
一方、文字切れの発生していないものは、再スキャンするとレイアウトによってはさらに傾く部分が発生する可能性があるということなのでそのままにしました。
読めないというわけではないですから。

また、もっと困るのはページ抜けが2冊ほどありました。
ただし、2冊とも600ページ以上もある中公バックスの世界の名著シリーズで、一冊は連続して2ページ、つまり一枚分、もう一冊は4ページ、つまり二枚分でした。
まあ、普通の本とはちょっと違うので仕方ないかなとも思います。
しかし、全ページ目視確認を掲げているチェック作業の信頼性という観点からは問題があります
ちなみに、ページ抜けはPDFのページ番号と本に書いてあるページ番号の差が最初と最後で一致するかチェックすれば分かりますので、確かめた方がいいですね。

他には、スキャン時に線が入ってしまったと思われるものが1ページ、ファイル自体が破損していると思われるものが一冊ありました。

これらは全て問題のあるページを再スキャンしてもらって解決しましたが、10日以内に報告しないと本が処分されてしまうので、出来上がると早めにチェックしないといけないのが困ったところです。
なお、変換したファイルの保存期間は一般会員の場合、三ヶ月です。


また、文字が薄くて読みにくいものがいくつかありました。
これは古い本によくあるのですが、元の本の文字印刷も薄めなのです。
したがって、コントラストを調整して濃くしてもらいたいのですが、裏写りや黄ばみが強調されてしまうのを避けるためか薄めの画像処理がされています。
PDFで調整できればいいのですが、Adobe Readerではできません。
したがって、JPEG変換をして画像処理ソフトで調整するしかありません。
Photoshopを使えば細かく調整できるのですが、私の持っているPhotoshop Elementsでは簡易な調整しかできません。
それでもかなり読みやすくはなります。
また、閲覧ソフトのPicasaでも見掛けの調整はできます。

ただ、BOOKSCANの色調整の基準が良く分からないのです。
例えば、先ほどの中公バックスの世界の名著シリーズだと、黄ばみが結構出ているのですが、文字は読みやすいのです。
一方で、中公のハードカバーの世界の歴史シリーズでは黄ばみは出ないのですが文字が薄くて読みにくいのです。
画像の色調整についてのリクエストは受け付けているようでが、基準が明確でないとクレームもつけにくいですね。

いずれにせよ、古い本は問題が発生しやすいようです。
傾きによる文字切れも40年以上前の世界の歴史シリーズでした。


BOOKSCANの特筆すべきサービスとして、チューニングラボというのがあります。
これは、iPadやiPhone、kindleなどの各社の端末にサイズや解像度を合わせた変換をやってくれるというものです。
先ほどのJPEG変換もチューニングラボで行います。
ただし、これはオマケ的なβサービスということで、処理仕様が実験的に変わるようなのです。

一回目のときにいろいろ試してみて、koboglo用の処理とRetinaディスプレイ搭載のipad用の処理が読みやすくて良かったのでそれでいこうと思ったのですが、一月くらい前に仕様が変わってしまい読みにくくなりました。
端末用の処理としてはファイルサイズが小さくなったり余白が除去されたりして改善されたということなのでしょうが、PC閲覧用の処理としては良くないですね。

したがって、今は将来購入予定のRetinaディスプレイ搭載のipad用チューニングとJPEG変換だけにしています。

また、二回目のときにはテキスト変換と音声変換もできました。
テキスト変換ができるとOCR処理をしなくても検索可能になり、こりゃいいなと思ったのですが、三回目のときにはテキスト変換も音声変換もチューニングラボから消えてしまいました。

あれは一体何だったのでしょうか?


なお、私は一般会員ですがプレミアム会員というのもあります。
これは、月一万円で50冊分のスキャンができて、一般では有料となるOCR処理やファイル名を書籍名に変換してくれる処理をします。
さらには現在一ヶ月以上かかる納期が一週間に短縮されたり、チューニングラボも優先的に利用できたりします。
50冊以上(350ページで一冊分となり、それ以上は200ページごとに冊数か加算される。オプション料金も同様)のOCR処理が必要な人は、明らかに得ですので利用した方がいいでしょう。
しかし、そうではない人は一般会員でいいのではないかと思います。
ファイル名は一般会員の場合、日付の入った数字の羅列になってしまいますが、私はフォルダ名に書籍名を入れて管理しています。
端末でPDFファイルを単独で扱う場合、ファイル名で何の本か分からないと困りますが、PCで扱うにはフォルダに書籍名があれば分かります。
チューニングラボの処理も、ブラウザで効率的やれば一般会員の一つずつの処理でも何とかなります。


以上のように、いろいろ問題のあるBOOKSCANですが、本棚一つに収まるくらいに本が減るまで利用していこうと思っています。

このようなサービスについて、「金を払うのだからもっと完璧にちゃんとやれ」と思う人もいるかもしれません。
しかし、私はそのような考えは間違いだと思います。
仕事としてやっていても他人が人のためにがやるのですから、思い通りには出来ないのは当然なのです。
一方で、自分でやればいくらでも完璧を目指してしまう。
ですが、これが良くないのです。
こういう作業で完璧を目指すのは大変な無駄です。
ですから、適当にやるために、完璧を目指さないためにこそ、人にお金を払ってやってもらうのです。

人を雇ったことがないと、こういう感覚は分かりにくいかもしれませんが、これは大事なことだと思います。

2013年5月24日金曜日

鈴木健の『なめらかな社会とその敵』を読んで

本書、『なめらかな社会とその敵』の巻末にある初出一覧を読むと、「全体に関するもの」として2001年に出た『NAM生成』という本が挙げられています。
全体的なイメージは、2000年に書かれたこの論文でほぼ出尽くしている。本書はこの文献で展開されている内容をその後の10年間の活動によって精緻化したものである。
と書いてあるように、その本の鈴木氏の論文、『第四章 ネットコミュニティ通貨の玉手箱』が本書のプロトタイプとなっているのでしょう。
私は当時、その論文を読みましたが非常に面白いと思いました。

ちなみに、「NAMって何?」と思われる方も多いでしょう。そこは無視して下さい。そこに触れてはいけません。鈴木氏もそう思っているはずです。

それで鈴木氏のその論文なのですが、まず、マイケル・リントンという人が発案した地域通貨LETS(Local Exchange Trading System)をベースに鈴木氏が開発したネットで取引ができる地域通貨システムGETS(Global Exchange Trading System)が紹介され、複数のLETS同士を繋いだInterGETSというアイデアも述べられています。
そして次に、「すべてが投資である貨幣」として相対値貨幣というのものが披露されます。「資本主義のブレークスルーをみている」という鈴木氏のこのアイデアこそが、本書で詳しく解説されている「価値が伝播する貨幣」PICSYです。

そこで、PICSYを理解するにはLETSのことをよく分かっていなければなりません。
本書でもLETSの説明はありますが、その本質的構造は書いてありません。
では、LETSの本質的構造とは何か?
それは複式簿記なのです。
私は何度かLETSの説明を読み、そこで強調されていたゼロサム原理から複式簿記と似ているなと思い始め、実際に取引をシミュレートしてみると完全に複式簿記そのものでした。
だから、LETSのソフトなどわざわざ作らなくても複式簿記の会計ソフトを少し改造して代用することも可能であり、そこから導き出される計算結果の意味は次のようになります。

複式簿記では貸借対照表などを作るために元帳と仕訳帳から残高計算表というのを作成しますが、そこに記載されている値はその会社における任意の時点の現金や預金、借入金等です。一方で、LETSでは、元帳が全体の取引記録、仕訳帳が参加者個々人の取引記録になり、そこから導き出される残高計算表にあたるものは参加者個々人のその時点の通貨保有残高になります。このようにして、通貨保有残高が正確に算出されるので(複式簿記ですから参加者全体で残高がプラスマイナスゼロになれば-ゼロサム原理-計算としては完全に正しいのです)通貨として機能する、というわけです。

ところで、複式簿記では貸方、借方という用語を使いますね。なぜ貸借という言葉を使うのかを詳しく説明するのは難しいのですが、簡単に言えば、そこに貸借のイメージがあるからなのです。
したがって、LETSにおいて、個人の残高がマイナスならば借りている状態であり、プラスならば貸している状態であるとも考えることができます。
ただ、普通は地域通貨においては、返済義務や利子がないので融資のような貸借関係にはなりません。
それは、むしろ融資じゃなくて投資、つまり、投資している人、投資されている人という関係になります。
ですから、LETSであってもPICSYと同様、「すべてが投資である貨幣」と考えてもよいのです。

ただし、LETSには重大な問題があります。
投資している、されているという場合、誰に投資しているのでしょうか?あるいは、誰から投資されているのでしょうか?
それは、地域に対してです。地域コミュニティ全体に対する投資、被投資の額が参加者個人の通貨残高となるのです。
これは、一つの会社の会計記録である複式簿記を原理としている以上、それしか計算できないのは当然です。
もちろん、”地域”通貨なのですから、地域に投資する、されているということが正確に数値として出てくれば、地域通貨としては十分に機能します。
ただ当時、「それでは、やはりコミュニティ至上主義だよな」と思ったのも事実です。
そして、「そういうのって、閉鎖されたコミュニティならではの村社会的な問題が出てくるんじゃないかな。下手したら、独裁者が息子に世襲させるような北朝鮮的な悲惨なことになるんじゃないだろうか?それで内ゲバみたいなことが起こって山形浩生にバカにされるような結果になるんじゃないか?」などとも思いました。

そんなことを考えていたときに、鈴木氏の相対値貨幣のアイデアを読み、「こんな方法があるのか!」と非常に興奮したのを覚えています。
私は数学が得意ではないので原理を正しくは理解できなかったと思いますが、この貨幣の計算方式ならば、コミュニティ全体ではなく参加者個々人に対する投資、被投資が正確に反映される。「これは凄いな!」と思いました。


このときから10年以上を経て、本書では、PICSYの理論とその数学的解説、ソフトウェアの開発と実験や、様々な問題点に対する回答が詳しく書いてあります。
また、通貨の問題だけではなくて、PICSYと同様の発想から生まれた新しい投票システムである「分人民主主義」、そして法や軍事の問題まで、「なめらかな社会」を実現するのための様々なアイデアが繰り広げられています。


ここでちょっと、哲学的な問題を考えてみたいと思います。
「なめらかな社会」の「なめらかさ」とは何と何の間の「なめらかさ」なのでしょうか?

私の考えでは、それはカントの「純粋理性のアンチノミー」における「先天的理念の第三の自己矛盾」の正命題と反対命題を結ぶ「なめらかさ」と捉えています。
つまり、
自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。
およそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する。
との間の「なめらかさ」です。
言い換えれば、カントのアンチノミーを解消したい、といういうことなのかもしれません。
世界の複雑さを自覚して生きながら、その自覚を通して世界への働きかけをはじめることが出来れば、私たちの未来は新たなダイナミクスを獲得することだろう。
というのは、哲学的にはそういうことだと私は考えました。
しかし、そこに、一抹の不安もあります。
アンチノミーをPICSYのようなシステムによって解消することは果たして可能なのであろうか?ということです。
システムが自然法則に取って替わることで、アンチノミーの解消が反対命題のみが残ることで達成されるのではないかという懸念です。
抽象的な話のように思われるかもしれませんが、現状の市場経済というものもそういう状況ではないかと思うのです。

私はアンチノミーを理論的に解消することはできないと考えています。
アンチノミーとは、人間の「態度」でしか乗り越えられないものだと思っています。
そういう意味で、先日書いた、坂口恭平氏の『独立国家のつくりかた』で述べられている、「態度経済」という考えが重要だと改めて思いました。

「態度」こそが今の制度をPICSY的なものに変えていくのではないか?とも思うのですが、いずれにしても、変わった後の世界を具体的に提示することはとても重要です。
だからこそ、本書も多くの人に読んで欲しいのです。

2013年5月21日火曜日

坂口恭平の『独立国家のつくりかた』を読んで

現在のような混沌とした時代には、若い人が新たな価値観を創造し古い体制を打ち壊していくという動きが出てきます。
例えば、明治維新のときの坂本龍馬のような存在ですね。
しかし、「平成の龍馬」を名乗るような人は政治家などにもおりますが、既成の枠の中だけでの改革を唱えているに過ぎなかったりします。
社会を根底から変えるには、今までの常識、というか人が見て見ぬふりをしていた部分に果敢に切り込んでいくような無鉄砲な行動力が必要なのでしょうが、多くの人がついてくるためにはそれだけではダメで、借り物ではない本物の知性とそこから滲み出る態度が必要なのではと思います。

坂口恭平という人には、それがあるのではないかと『独立国家のつくりかた (講談社現代新書)』
を読んで思いました。

この本は、坂口氏が東日本大震災と福島第一原発の事故を受けて、地元の熊本に本拠地を作り「独立国家」と称し、福島から避難された方々や子供達のためのキャンプなどを企画した一連の行動を、坂口氏のこれまでの経歴とともに紹介するという内容になっています。

しかし実際に読んでみると決してそれだけではなく、本書は明確に思想書、哲学書であり、その思想、哲学が生んだ一つの形として一連の動きがあったことが分かります。
少なくとも、彼が動画で見せているようなパフォーマンスや、躁鬱病を患っている(本人は「病気」とは思っていないようだが)ことから、「独立国家」を「遊び」や「症例」などと捉えては全く事の本質を見誤ります。

思想、哲学などと言ってもカントのような哲学者の名前が少し出てくるだけで、一般の思想書とはだいぶ異なります。しかし、この人はある程度の哲学的教養を備えた上で、物事を極めて体系的に考え自分の言葉としてアウトプットしていることは明らかです。

具体的に言えば、ドゥルーズ=ガタリの思想にとても近いものを感じました。
「自分を一個の機械と考える」というような発想もあることから何らかの影響を受けているのかもしれませんが、思想や哲学を専門にやっている連中よりもよほど、ドゥルーズ=ガタリの本質に近づいているのではないかと思います。

この人の問題意識の重要な核は土地に関することですが、より本質的にはお金に関することと言っていいかもしれません。
これは今や、建築でも芸術でも文学でも哲学でも本気で向き合おうとすれば、無視できないことなのです。
まさに、それこそが現代の本質と言ってもいいかもしれません。
土地だとかお金に対し、「アーティストの私にとって、そういうのって苦手というか疎いというか・・・」みたいな態度はもう滑稽としか言いようのないものになってしまいました。そういう人を見ると、芸術家コントを見ているような気にさせられます。

もちろん、ある程度物を考えているような人はそのことに気がついているのですが、お金というものは実に難しいものです。

芸術家がお金に本質的に向き合おうとして気がついたらただの高級おもちゃ屋さんになっていたり、批評などをやっていたのがいつのまにか水商売の親父になっていたりなどという例は、お金というものの厄介さを知る上でのみ役に立つ具体例でしょう。
あるいは、堀江貴文氏のようにビジネスの土俵でお金を考えようとしても、お金の罠に嵌まってしまい国家に潰されるようなこともあるわけです。

そういった土地やお金がもたらす困難さをいかに躱して、新たな価値観を創造し、社会を変えていくか。
坂口氏は土地の問題を考えるにあたり路上生活者と接することから始めましたが、そのような実践と、本書で再三強調されているように徹底して疑問を持ち、意識を持ち、考えるということの相互運動が重要であり、この運動を人間機械論として捉えているのも面白いところです。
そしてそれが、「芸術=経済」という意識を持ち、考え、「実践すること=社会を変えること=既存の匿名化したシステムから離れ独自のレイヤーを見つけること」なのでしょう。

80年代的な無意識の擁護と相対主義に対し、徹底した意識化と断定を推し進める坂口氏の思想は、ポストモダン系の思想から出発して遅れてきた80年代おじさんみたいだった人が結局はゼロ年代的な「遊び」で終わってしまった後で、3.11以降いきなり社会に目覚めて「福島第一原発を観光地に!」とかおかしな方向にいったのとは実に対照的だなと思いましたが、ドゥルーズ=ガタリなどはそういう連中と違い断定的に実践を促すものでした。それは危険な思想ではありますが、今は明らかにそういったことが要請される時代になってしまいました。

坂口氏が行っている建築学的な調査は、赤瀬川源平らが70年代にやっていた超芸術トマソン(路上観察)に近いかもしれません(したがって、「もの派」との関連も考えられる)。
ただし、赤瀬川のトマソンは大きく誤解されているところがあると思います。
現在でも団地なんかを面白がる連中がいますが、赤瀬川のやっていたことは本質的にそれらとは異なります。
白洲正子が晩年、赤瀬川と意気投合したことに見られるように、赤瀬川のそれは実は茶道、というか千利休の茶に近いものでした。

この千利休について本書では興味深い記述があります。
鬱病状態のとき、他の鬱病患者と同じように坂口氏も何を見ても感動しない状態になるそうです。
しかしそれは、「感動しない=それぐらい高いテンションの鑑識眼状態にある」という意味で鬱病の精神状態を千利休病と称して、「おれ今、ちょっと千利休っぽくて」と言えばいい、などと書いています。
これは案外、利休について本質的な部分を突いているのではと思いました。

また一方で、路上生活者の手作りの家を賞賛することから、アーツ・アンド・クラフツとの関連も見いだせますが、これについて最近の日記で重要なことが述べられています。
別に、全てを手作り品で身の回りを埋め尽くしたいのではない。むしろ全くそんな気はない。相変わらず勘違いされることも多いのだが、手作りなんて、逆にあんまり好きじゃないくらいだ。そうではなく、ファミコンという製品を見て、それを模して、自分の手で、デジタル感を表現するのが好きなのだ。サンリオ商品の真似をして、サカリオという商品を模した商品のようなものを作るのが好きなのだ。自分の作った適当なものを透明の袋に入れるだけで商品化してしまう、その透明の袋や、額縁が好きなのだ。なぜ一枚硝子を通すだけで、写真は、作品になるのか。その膜が気になっている。0円ハウスもその精神で捉えている。僕は60年代に流行ったようなセルフビルドなんか実は全く興味がない。むしろ、自らの創造性を減退させるものなので、避けている。0円ハウスはそうではない。あれは、製品だったものが家の部材に変化している、トランスフォームしていることが興味深いのだ。その違いを言語化するのって、なかなか難しいものである。
この「違い」に、芸術と社会、経済の複雑な問題があると思いますが、それを思想として提示するのは現時点では難しいことなのでしょう。しかし、少なくとも単なる美学的な立場や、従来の社会主義的な立場だけで考えることはできないことは確かです。


今、日本はアベノミクスで浮かれて金さえ刷ればオールオッケー!みたいなムードになってきていますが、早晩この状況は崩壊するのではないかと思います。
そうなったときに、坂口氏や同年代である起業家の家入一真氏のような、お金と社会のあり方を変革する様々な試みを行っている人物が本当に必要とされる時代になるのかもしれません。

とにかく、この『独立国家のつくりかた (講談社現代新書)[Kindle版]』は、多くの人、とりわけ若い人に読んで欲しいと思います。
やりたいことは無視して、自分がやらないと誰がやる、ということをやらないといけない。
その通りじゃないですか。