2013年5月21日火曜日

坂口恭平の『独立国家のつくりかた』を読んで

現在のような混沌とした時代には、若い人が新たな価値観を創造し古い体制を打ち壊していくという動きが出てきます。
例えば、明治維新のときの坂本龍馬のような存在ですね。
しかし、「平成の龍馬」を名乗るような人は政治家などにもおりますが、既成の枠の中だけでの改革を唱えているに過ぎなかったりします。
社会を根底から変えるには、今までの常識、というか人が見て見ぬふりをしていた部分に果敢に切り込んでいくような無鉄砲な行動力が必要なのでしょうが、多くの人がついてくるためにはそれだけではダメで、借り物ではない本物の知性とそこから滲み出る態度が必要なのではと思います。

坂口恭平という人には、それがあるのではないかと『独立国家のつくりかた (講談社現代新書)』
を読んで思いました。

この本は、坂口氏が東日本大震災と福島第一原発の事故を受けて、地元の熊本に本拠地を作り「独立国家」と称し、福島から避難された方々や子供達のためのキャンプなどを企画した一連の行動を、坂口氏のこれまでの経歴とともに紹介するという内容になっています。

しかし実際に読んでみると決してそれだけではなく、本書は明確に思想書、哲学書であり、その思想、哲学が生んだ一つの形として一連の動きがあったことが分かります。
少なくとも、彼が動画で見せているようなパフォーマンスや、躁鬱病を患っている(本人は「病気」とは思っていないようだが)ことから、「独立国家」を「遊び」や「症例」などと捉えては全く事の本質を見誤ります。

思想、哲学などと言ってもカントのような哲学者の名前が少し出てくるだけで、一般の思想書とはだいぶ異なります。しかし、この人はある程度の哲学的教養を備えた上で、物事を極めて体系的に考え自分の言葉としてアウトプットしていることは明らかです。

具体的に言えば、ドゥルーズ=ガタリの思想にとても近いものを感じました。
「自分を一個の機械と考える」というような発想もあることから何らかの影響を受けているのかもしれませんが、思想や哲学を専門にやっている連中よりもよほど、ドゥルーズ=ガタリの本質に近づいているのではないかと思います。

この人の問題意識の重要な核は土地に関することですが、より本質的にはお金に関することと言っていいかもしれません。
これは今や、建築でも芸術でも文学でも哲学でも本気で向き合おうとすれば、無視できないことなのです。
まさに、それこそが現代の本質と言ってもいいかもしれません。
土地だとかお金に対し、「アーティストの私にとって、そういうのって苦手というか疎いというか・・・」みたいな態度はもう滑稽としか言いようのないものになってしまいました。そういう人を見ると、芸術家コントを見ているような気にさせられます。

もちろん、ある程度物を考えているような人はそのことに気がついているのですが、お金というものは実に難しいものです。

芸術家がお金に本質的に向き合おうとして気がついたらただの高級おもちゃ屋さんになっていたり、批評などをやっていたのがいつのまにか水商売の親父になっていたりなどという例は、お金というものの厄介さを知る上でのみ役に立つ具体例でしょう。
あるいは、堀江貴文氏のようにビジネスの土俵でお金を考えようとしても、お金の罠に嵌まってしまい国家に潰されるようなこともあるわけです。

そういった土地やお金がもたらす困難さをいかに躱して、新たな価値観を創造し、社会を変えていくか。
坂口氏は土地の問題を考えるにあたり路上生活者と接することから始めましたが、そのような実践と、本書で再三強調されているように徹底して疑問を持ち、意識を持ち、考えるということの相互運動が重要であり、この運動を人間機械論として捉えているのも面白いところです。
そしてそれが、「芸術=経済」という意識を持ち、考え、「実践すること=社会を変えること=既存の匿名化したシステムから離れ独自のレイヤーを見つけること」なのでしょう。

80年代的な無意識の擁護と相対主義に対し、徹底した意識化と断定を推し進める坂口氏の思想は、ポストモダン系の思想から出発して遅れてきた80年代おじさんみたいだった人が結局はゼロ年代的な「遊び」で終わってしまった後で、3.11以降いきなり社会に目覚めて「福島第一原発を観光地に!」とかおかしな方向にいったのとは実に対照的だなと思いましたが、ドゥルーズ=ガタリなどはそういう連中と違い断定的に実践を促すものでした。それは危険な思想ではありますが、今は明らかにそういったことが要請される時代になってしまいました。

坂口氏が行っている建築学的な調査は、赤瀬川源平らが70年代にやっていた超芸術トマソン(路上観察)に近いかもしれません(したがって、「もの派」との関連も考えられる)。
ただし、赤瀬川のトマソンは大きく誤解されているところがあると思います。
現在でも団地なんかを面白がる連中がいますが、赤瀬川のやっていたことは本質的にそれらとは異なります。
白洲正子が晩年、赤瀬川と意気投合したことに見られるように、赤瀬川のそれは実は茶道、というか千利休の茶に近いものでした。

この千利休について本書では興味深い記述があります。
鬱病状態のとき、他の鬱病患者と同じように坂口氏も何を見ても感動しない状態になるそうです。
しかしそれは、「感動しない=それぐらい高いテンションの鑑識眼状態にある」という意味で鬱病の精神状態を千利休病と称して、「おれ今、ちょっと千利休っぽくて」と言えばいい、などと書いています。
これは案外、利休について本質的な部分を突いているのではと思いました。

また一方で、路上生活者の手作りの家を賞賛することから、アーツ・アンド・クラフツとの関連も見いだせますが、これについて最近の日記で重要なことが述べられています。
別に、全てを手作り品で身の回りを埋め尽くしたいのではない。むしろ全くそんな気はない。相変わらず勘違いされることも多いのだが、手作りなんて、逆にあんまり好きじゃないくらいだ。そうではなく、ファミコンという製品を見て、それを模して、自分の手で、デジタル感を表現するのが好きなのだ。サンリオ商品の真似をして、サカリオという商品を模した商品のようなものを作るのが好きなのだ。自分の作った適当なものを透明の袋に入れるだけで商品化してしまう、その透明の袋や、額縁が好きなのだ。なぜ一枚硝子を通すだけで、写真は、作品になるのか。その膜が気になっている。0円ハウスもその精神で捉えている。僕は60年代に流行ったようなセルフビルドなんか実は全く興味がない。むしろ、自らの創造性を減退させるものなので、避けている。0円ハウスはそうではない。あれは、製品だったものが家の部材に変化している、トランスフォームしていることが興味深いのだ。その違いを言語化するのって、なかなか難しいものである。
この「違い」に、芸術と社会、経済の複雑な問題があると思いますが、それを思想として提示するのは現時点では難しいことなのでしょう。しかし、少なくとも単なる美学的な立場や、従来の社会主義的な立場だけで考えることはできないことは確かです。


今、日本はアベノミクスで浮かれて金さえ刷ればオールオッケー!みたいなムードになってきていますが、早晩この状況は崩壊するのではないかと思います。
そうなったときに、坂口氏や同年代である起業家の家入一真氏のような、お金と社会のあり方を変革する様々な試みを行っている人物が本当に必要とされる時代になるのかもしれません。

とにかく、この『独立国家のつくりかた (講談社現代新書)[Kindle版]』は、多くの人、とりわけ若い人に読んで欲しいと思います。
やりたいことは無視して、自分がやらないと誰がやる、ということをやらないといけない。
その通りじゃないですか。

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